■ notes / pluviôse an CCXVII




 忘れないで、でも思い出さないで。

- 「Kanon & AIR スカイ」(依澄れい)







◆CCXVII年雨月1日

 誰が読むかな。すぐに気付きそうな人も浮かぶけれど、大体の知人はなかなか気付かないんじゃないかな。ここに気付いたら教えてね。

 さて、何を書きましょうか。インタフェースとかデザインというのは内容を決めてしまう面があって、その点はてなではどうもやっぱり窮屈なのでしばらくあっちの更新はしないで、と言ってももともと全然更新していなかったんだけれど、それでこっちを遣ってみようかなあと思ったんだけれど。こういうデザインにしたということは、それっぽいことを書けばいいのかな。だからあっちとキャラが違ってもびっくりしないでくださいね。反動的なのは承知の上で。

 5年とか10年とか前と比べると、今、その手の人の多くは、日記でコミュニケーションをとるということをあまりしなくなっているように見えるんだけれど(例外はTwitter)、それがインターネットをつまらなくしている1つの原因なんじゃないかな、と思う。でもそれには理由があって、blogはいちゃいちゃするのに向いていない(blogに限らず、海の向こうからクールな印象とともにやってきたものは大体そうだ)。特にはてなブックマークとblog検索がある世界では、全く向いていない。だからこの覚書は、こういう古めかしいスタイルをとっているんだけれど。
 ので、意識的に、ここでは言及する範囲を広くとることにする。けっこうどきどき。

 「かなめも」(石見翔子)が今度アニメ化らしいですね。うーむ……。

 アニメ化とは関係なく、「かなめも」のはるかについて。
 はるかがヤバいと感じられるのは何故かというと、彼女が満足しているように見えるから。フキダシで描かれるはるかの妄想は完全な児童性虐待で、その彼女が(少女愛的な意味で)日々に満足しているように描写されているということは、つまり、かな&代理は性的に虐待されているということですね、としか読み取れない。
 そのときに、かなや代理がそのことをどう自分の中に位置づけるのか、というのはまあ容易に想像できますよね。一方で、そのことがあの専売所の中でどう扱われているのか、というのが想像しがたい。というか彼女達はみな、当事者としては強くても、同居人としてはどうなのか分からないのであって、うーみゅ。そもそもあの専売所はあのような形で成立している根拠がない「不安定の釣り合い」なので、生起した不安は必ず拡大するようになっている。
 はるかは1つの例であって、「かなめも」はどこもかしこも不安を煽るように作られている。例えば、代理が誰の代理で、両親はどこにいるのか、そういった話題に少しずつ答えていくことで安定を維持するのが多くの萌え4コマなのだけれど、「かなめも」は決してそういう方向に向かない。そう見れば、「ふおんコネクト!」(ざら)の問題意識に通じますね。


◆CCXVII年雨月2日

 きららMAXの2月号を読んだ。
 「R18!」(ぷらぱ)を相変わらず樂しく読んでいる。どういう作品かこれを期に説明しておくと、可愛い女の子しか働いてないエロゲ会社の頭の螺子が外れた日々を描いた4コマで、主人公の里佳子の話聞かなさがすばらしい。
 今回はファミレスでおまけシナリオのシチュエーションを相談するという話だった。ファミレスで周囲を省みずアレな会話をすることはみっともないので止めましょう、という通念の射程はどこまでか、とはたまに思うけれど、彼女たちの無茶苦茶さが爽快だと感じた後では、あんまり悪いことではない気がしてくるなあ。ファミレスという場において社会を実在論的に持ち出す根拠は、少なくともないよね。


◆CCXVII年雨月3日

 清水マリコさんの篤姫トークから単語を引用してちょっと東方の話をしてみる(@ke_taさんの紹介を読んで知った。あの説明も問題がある――具体的には、あれだと百合がどうなるんだろう――とは思うんだが、自分で纏めなおすのも難しいし)。

 最新事情には明るくないけれど、僕の知る限りゆかれいむってのは基本的に霊夢という《少女》を《女の子》に読み換えるカップリングなので、どちらかというとそれをどう処理するかという技術的な話が重要になってくるんですよね。勿論、そこをものともしなくするような大ブレイクスルーが起きる可能性はいつでもあるれど。
 そこらへんの集積がイマイチ(少なくとも、外部から見ると)なのが、僕がこのカップリングをよく理解できない理由だったりする。

 霊夢と美少女天皇を繋げる議論もそこらへんがまずい。幻想郷における《少女》を肯定するために《美少女》を持ち出すのはかなりの無理筋。「空を飛ぶ」=重力の影響を受けない=しがらみが存在しないのが霊夢=少女であって、体制に力が剥ぎ取られていることで無敵化する、天皇=美少女とは根本的に違う。
 勿論、実はそうなんだという観点から全東方を読み換えて傑作SSを書くという手は、常に存在しますよ。


◆CCXVII年雨月4日

 昨日のを読み返していたのだけれど、いつの間に《少女》の用法がこんなことになったんだろう。ZUN語は危険だなあ。同じ言葉を遣っていても相手と自分で喋っていることが全然違うとか起こりやすすぎる。

 ヤンデレの切実さと醜さに寄り添うこと。


◆CCXVII年雨月5日

 比較的通じやすい言語で問題を定式化する方法が分かったので、その定式化で書く。
 「なぜ<別れの歌>は<最高速>で唄われるのか?」

 僕たちは「泣き」に対して誠実でなければならない。記憶の奔流、自己陶酔的な・メロディアスさ、時間管理。これらのルールさえ守って創れば、それは泣ける。まずはそこから始めなければならない。
 高尚で複雑な議論、深い分析をしたい人なら。あるいは、好きなものについて語るだけじゃなくて、書き手としてのレヴェルを上げたいとか思うような人なら、作品の文学性や藝術性について語ればいいと思う。泣きについての議論は、もっとどうしようもなくてみもふたもないことだ。


◆CCXVII年雨月6日

 世の人たちは信じがたいほど書くのが速い。
 あの、単語の選択を一瞬でこなす能力というのは、どこで身につけたのだろう。単に自分が老化し始めているだけ? 確かに、まあ……。

 「ナイトウォーカー! 東まゆみ短編集」を読んだ。
 何はともあれ服のセンスである。例えば、食い倒れ人形のようなストライプというのはアレでも印象的だったけれど、このセンスを生み出す必然性はどういったものなのだろう。僕には想像を絶する。文化的背景、世代、性別などから説明できたりしないのかなあ。
 印象的なデザインの服と言われて思い出すのはまず長方形に切り取られた体操服だなあ……いや、これはデザインの問題じゃないんだろうけれど。

 姫里&空ちゃん、という名前を覚えている人はどれだけ居るのだろうか。
 北川ファンサイトなんかのうぶろげな記憶。ネットワークにその欠片だけ残して。


◆CCXVII年雨月7日

 人生の中で1次創作の数倍は2次創作を読んできた僕にとって、ボーイミーツガールなんてのは巨大な謎だ。
 野蛮人のように、1次創作のルールを1つ1つ発見しては驚いている。物語を始めるための仕掛けというのは、不思議なものばかりだ。唯一理解できるのはうだうだ系男性一人称なのだけれど、これは物語を展開する仕掛けとしても機能するし。

 ……やはり先天女体化しかない。


◆CCXVII年雨月8日

 「キルミーベイベー」(カヅホ)を読んだ。
 華麗なるからかいの現代戦。

 この漫画の何が面白いのか、と訊かれて説明するのは易しい。挑発はそれだけで普遍的な面白さがあり、地球の反対側から誰かを1人連れてきてこの漫画を読ませたとしても、ギャグが理解できないとは言われないはずだ。
 しかし勿論、僕たちが読んでいるのはそこではないのであって、可愛い女の子が挑発して(アレな響きだ……)可愛い女の子の殺し屋がキレるのでなければこの作品は本当にはすばらしくないのだけれど、でも、自由、少女、コミュニケーション、賭けと依存、そういうものについては存在を認識すること自体は、問題として定式化すること自体は、まあ難しくない(これらの単語から論理の繋がりが見えなかったのならば、こんな文章読むのを止めてまずは「キルミーベイベー」を買いに行くべきだ)。
 問題として一般的な形で定式化するのが難しいのは、何故ソーニャは殺し屋でなくてはならなかったのか、だ。物語を始めることと、物語を続けることの間の、深刻な隔たり。物語を続けるにあたっては、ソーニャが殺し屋であることは必要ない。しかし、物語を続けることの出来る物語の始まりには、間違いなくソーニャが殺し屋であることが要請されていた。
 どことどこが繋がっているのか? より細かいトポロジーを入れなければならない。どこに? 可能なキャラクタの空間にか、それとも作品世界の貼り合わせにか、うーん……。


◆CCXVII年雨月9日

 自分が1〜3年前に書いた文章を読んでいたら今よりずっと回転が速くて絶望した……。理由は明らかだ。通う場所が変わったからだ。あんな雰囲気の悪い場所に週5日も通っていてまともに頭が働くはずがない。
 しかし、何も面白いことが書けなくても、とにかく書かねばならない。

 「まんがタイムきららキャラット」3月号を読んだ。
 「空の下屋根の中」(双見酔)が。香奈絵もバイト始めたのに自分は……。

 「とらドラ!」(竹宮ゆゆこ)も「生徒会の一存」(葵せきな)も弟が買って読んでいるから自分で読む気にならない。あと川上稔とか。ラノベ力が低下するのもむべなるかな。
 多分これは溺愛が高じて弟を自分の一部と看做しているのが原因じゃないかと思う(自分の一部がもう読んでいるのだからもう一度読む必要はない、という論理)。うーん……。


◆CCXVII年雨月10日

 エロパロ板のヤンデレスレとかキモ姉・キモウトスレを見ていると、心中も惨殺も社会から排除された能力の低い負け組ヤンデレのするもの、という認識がここ1年で少しずつ広がりつつあるようだ、と感じる。まあそれは確かにそうだよねえ。でも、うーん……? ちょっと釈然としない気もする。
 まあ例えば、笑いながら血まみれで追いかけてくる女の子に欲情したりするみたいな心の働きとは分離してほしい、というのは僕も感じるしなあ。まあそんなものか。
 あと、親の時代からの血の因果みたいなのはヤンデレの人格を尊重していないんじゃないでしょうか。


◆CCXVII年雨月11日

 新ジャンルを読み耽っている。「じみデレ」に心を抉られたりした。

74 名前: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします。 投稿日: 2007/07/24(火) 05:10:05.06 ID:rDkoVoXF0
男「ねぇ」
女「ん?」
男「……俺と君って、なんなの?」
女「…」

男「今日は、はっきりしときたいんだ」
女「ふーん」
男「……俺は、君を恋人だと――」
女「友達だよ」
男「!」
女「友達」
男「…」
女「友達だから、倦怠期だとかだれるとかないんだ」
男「……?」
女「ずーっと友達。ずーっと……仲良しだよね?」
男「…」
女「ね?」
男「うん。そうだね」
女「♪」

男「…」(友達以上……かなぁ)
女「ん?」
男「ううん」

 ツッ――――!!(言葉にならない叫び)


◆CCXVII年雨月12日

 「空ろの箱と零のマリア」(御影瑛路)を読んだ。バレをそんなに気にせず書くので気にする人は回避してくださいねー。
 ゲーム的リアリズム(笑)もパターンの淘汰と成熟に向かっているなあという印象。あと2年くらいこういうことやっていれば次の思想的ブレイクスルーが来たりしないかな。
 色々人が死んだり事件が起きたりするけれど、最後には全て丸く収まるので、最後には全て丸く収まるのが好きな人にお薦め。そうでなければ、まあまあ。
 とりあえず技術的にはそれなりに上手いので読んでいて苛々することは少ない。この手の話で空っぽにしがちな部分をきちんと埋めているのは作者の力なんだろうなあ。設定や描写がことごとく最後には全て丸く収まるためにチューンされているという印象を受けました。

 文句をつけます。
 「設定や描写がことごとく最後には全て丸く収まるためにチューンされているという印象を受けました」。ではそのチューンとは何か? 「最後には」というのはつまり、ループの1回1回で起きたことではなくて最終的に決定されたものにしか興味を向けないということで、上位存在、勝者の歴史書、歴史の審判の視点からループを捉えている。
 ループというのはその内部に完全に取り込まれている存在が居てちょっとだけ内部に取り込まれていない存在がたまに居るくらいで、だから時間はリセットされても1回1回の出来事には重みが生じるし、あるいはループの中で記憶を保っている存在はその引き継いできた記憶、それまでの出来事というのに真実味が出てくるとかいう話だったと思うんだけれど、例えば"O"なんかのようにそれを外部から(通常の時間が流れるかのように)観察する存在というのは、えーっと、それ、わざわざループモノという形式にする意味はあるのかなあ、と。なぜそんな存在を持ち出すかというと、最後の審判の視点というのを読者みたいな不安定な存在に任せず、作品世界内で担保するために決まってますが。
 同様に、ループモノなのに27753回目から27755回目までの3回しか殆ど描かれないこと。「同じことが何度も起こってきた」というのを、27754回目の視点から語られてしまう。そうじゃなくて、つまり、事実、同じことが何度も起こってきたんでしょ? 語られるだけじゃなくてさ? なぜそういう構成になっているかというと、それもつまり、脱出できた回以外に興味をもたれることは、「最後には丸く収まった」の「最後には」の重みを弱める行為なんだから、そうならないようにしないといけない。あったけどもうないこと、ありえたことに目を向けさせないように描かれている。

 と書くと邪悪なんだけれど、多分編集に色々手を加えられた(simplifyされた)んだろうなあと読んでいて感じる話なので、どこまで統一した意思の元に作られたのかはなんとも。
 ……あれ、もしかしてこの話、全然ゲーム的リアリズム(笑)ではない? なんかわかんなくなっちゃった。

 ループゲーは既読スキップというシステム無しには大半が成立し得ないので、小説に移植するのは難しいですね、という話とかもあるしなあ。


◆CCXVII年雨月13日

 朝(ではなく昼)に起きてからずっと抑うつ気分で、まともに活動できないまま1日が終わった。


◆CCXVII年雨月14日

 「コンピューターで生成された仮想世界が崩壊してゆく様が描かれている。」
 あれもそれもみんな直接のネタ元はコレっぽすぎるーーー!!
 まともに世間を追いかけないといかんなあ。Perfume聴くか。

 とついこの前のローカルメモに書いてあるのだけれど、ちゃんと知ってる人に書かれてしまったので、なんというか、アレです。
 いや、少ない情報から正しい推論をした自分SUGEEEEE!!とか思うことにでもしてみればいいのでしょうか。

 で、相手が気付くかどうかも怪しいこんなところでメッセージを送っておくと。
 ええと、なんか反応に困るコメントをしてしまってすいません。僕も「初音ミクの消失」とか「Θ」は好きです(にわかなのであまり自分の耳に自信がないですが)。特に「初音ミクの消失」は、単位時間当たりの泣き要素を最大化するという技術論的に、今まで僕が知っていた水準を更新するだったので、凄いなあと感じました。あと、「伺か」「たゆみ。」などなど「プログラムの女の子」というのが好きなので(「物語の登場人物の女の子」=単なるメタフィクションではない)、cosMoさんの曲は直撃したというか。そんなです。メッセージになってないな。重ね重ねごめんなさい。

 そういえば、東方・アイマス・ボカロ(この3つを同列に並べるのはだいっ嫌いなんですが)が全部後ろ向きの希望っぽいのは、この世界ってなんとも偏ってるなあと、いや、その括り方は流石に恣意的?

 結論:メタの機能はやっぱり泣かせと感情移入とチープさ。

 なんか懸想されてる?
 いや、褒めていただけてありがたいですが、買いかぶりが激しくてちょっと申し訳ないです。
 僕は僕で、物語をベタに読む力が足りなくてフィクションに対する考察に限界を感じていたりするので、まあ、その。

 xreaが死んでてまともに更新が出来ない。どこかに移管しようとも思ったが、or.atで取ったせいで難しいしなあ。どうしようかしらん。


◆CCXVII年雨月15日

 「電波女と青春男」(入間人間)を読んだ。
 うーん……。まあ適当に感想書いとこう。マジでテキトウに。
 文体。パロディネタが上滑りなのが気になった。内容。リア充青春小説だが、自己言及してるのにしきれていないところが新しいと言おうと思えば新しいかもしれない。つまり微妙。キャラ。作品内容同様、テーマは「中途半端」。しかし中途半端さに陶酔的に萌えられる訳ではない。ただ、作者の女性の趣味が伺えるのは良い。続編。とても続けにくそう。化ける? いやでも、あまり期待は。

 一部では「『AURA』は上から目線だが入間人間先生はマジなので良い」と見る向きもあるらしい。そうかー?
 あと、「電波男と青春女」と言い間違えるのをどうにかしてください。


◆CCXVII年雨月16日

 おれつばが面白いらしい。ゲームをプレイできる人たちは羨ましいなあ。
 僕は4日以上物事を継続して取り組むことが極端に苦手なようで、大抵のゲームは1人コンプする前に飽きて投げ出してしまうので、銭を溝に捨てる気分にならないとゲームは買えないのである。

 今日は愛する弟と野村哲也が如何に変態かということを語りあった。
 ネットで語られる邪気眼なんて多くはFF7・8に影響された世代的体験(全共闘みたいなもん)であって、彼は恐らく万単位の邪気眼に対して責任があると思われる。あんなアホなゲームが何百万本も売れたのは明らかに異常だったよねー、と。というかスコール君のものまねだけで30分は会話できる僕らは焼き払われた方がいい。

 FF13もヤバい。「ルシとは、ファルシに選ばれ、使命と烙印を背負う者」とか。「ルシ」はギリギリを通り越してアウトだろ、と思いながら色々調べていたらアレですよ、綴りがl'Cieなんですよ! ファルシはfal'Cie! ヤバ過ぎる! 本物の変態だ! 一生付いてく!
 エロゲやラノベは未だに野村を葬り去れていない。「魔導院ペリティシリウム朱雀」とか書ける人間がいま何人いるのか?

 でも前述の通り、FF13買ったって中盤で投げ出すだろうからなあ……。てか、PS3ないからアギトしかできないし。


◆CCXVII年雨月17日

 15日の追記。「電波女と青春男」について書こうとしたのに忘れたことを思い出した。一番書きたかったことのはずなんだけどな。

 あれですよね、超絶美少女であることを「粒子出てる」と形容するのはとてもすばらしいですね。
 勿論、この表現から思い出すのは、

 琴音が起こす超常現象も私なりの現実感で描写されています。
 黒く光るのは慣性力を奪われた光子……。
 白く光るのは放射線状に揃えられた光の三原色……。
 私は琴音のために“リアルリアリティ”なる言葉を捧げたいと思います。

という超先生の名言で。

 【以下は完全に知の欺瞞なのでまじめに取ったらダメゼッタイ! 聞き流して!】
 粒子がどうとかいうと厨房的にはレッツ量子力学ですよね。で、なんかやっぱり、キャラクタの根本には、とびとびさというか、量子性? みたいなのがある気がするよね。いや、離散性とかいったほうがいいのかな。
 それが不安だから連続的なものに近似して(あるいは、埋め込んで?)見ようという方針が採られてきた訳だけど(漫画がその本質的な矛盾を隠蔽してどうの、とか言い換えてもいい)、だからって連続的に見えれば見えるほど(動きがあるとか、デッサンが凄いとか)偉いかというと、必ずというわけでもなさそうで、というのはあって。いや勿論それは、僕がアレなものばっか見て育ったからというだけなんですけど、まあ、それはそれとして論理の正当性を主張出来ないわけではないし。
 で、話をちょっと変えると、「ふおんコネクト!」(ざら)以外にglobalな価値を持った作品は存在しないかのように、萌え4コマを扱っている人というのが居て。いやまあ気分は分かるけどさ。でも流石にそれは乱暴すぎない? とか。
 なんというか、4コマに本質的に備わっている離散性こそglobalな価値として主張するべきではないかと。「萌え4コマに至って、漫画はその離散性を直接表現する方法を手に入れたのだ」くらい大上段に構えたらどうかな? いや、たぶんそれは流石に大嘘だね。


◆CCXVII年雨月18日

 最近親しい知人にリア充エピソードを聞かされる機会が多くて辛い。知らない人がリア充しているのは別にいいのだが、近い人、シンパシィを感じる人がリア充しているのを見ると、自分の進もうとしている道に仲間はそう居ないかもしれない、と思わされてしまうのだ。あるいはその道が完全に間違いかもしれないとも。
 立ち回りについては割と反省会しながら生きているつもりだが、振り返っても大きなミスはそうしていないはずなので、戦略レヴェルで問題があるのだろう。戦略レヴェルで問題がある――人格に問題がある、と。うゆー。
 何かやりたい、誰か人と知り合いたい、とは思う。けれど、それならばその前に、双見酔の漫画の登場人物のようになりたい。具体的なことの重みに耐えられない。

 (逆に言えば、だからこのサイトはこんな風になっている)


◆CCXVII年雨月19日

 「キミとボクをつなぐもの」(荒井チェリー)を読んだ(雑誌で7割がた読んでいたのだが)。文句の差し挟みようもなくすばらしい。
 僕の知人にひとり異界の住人がいる。彼の語る世界は僕のような平凡な人間には想像も及ばないようなもので、いつも驚嘆しながら話を聞かせてもらっている。
 仮にその異界の論理をどうにか他人に説明しろといわれたら、僕はこの本を相手に差し出すことだろう。そこで起きる出来事はそう似ているわけでもない。しかし、「現実」からの論理のズレかたがそっくりなのだ。どこが間違っているのか指摘しようとしても、根本的なところに切り込めないところも。恐らく、荒井チェリーもまた異界の住人なのだろう。

 何の作品説明にもなっていないことは分かっている。しかし、僕の能力ではこれ以上の詳しい説明は不可能だ。それを具体的に描写した瞬間、異界はそこにある魔法の力をどこかにやってしまう。
 自分の手に負える存在ではない。とにかく凄い作品である。

>ke_taです。最近こっちに書いてたのかあ。これわかる<「あんな雰囲気の悪い場所に週5日も通っていてまともに頭が働くはずがない」

 メッセージありがとうございます。こっちに書いていたのです。
 あそこには厨房力を削り取る地形効果が(悪い意味で)かかっている気がする……。


◆CCXVII年雨月20日

 そもそも、電波ソングどころか麻枝以外のヲタ曲は僕の知る限りほとんどまともに分析されてなくて。あ、ミク特集?

 (初期〜中期の)I'veサウンドと現代のオタシーンの繋がりをまともに論じた文章とかどこかに転がってないですかね。あれは聴いてるだけで感動と発見の山なんだが。そこらで扱われているテーマの大半は転がってて、しかも鮮やかな見通しがつけられている。何しろ音楽なんだからこれ以上に鮮やかなものはない。
 そういう風に音楽を論じようとする態度は音楽評論の立場からすると色々捨象しまくらないといけなくて嫌われるのかな、というのはよく理解できる。しかしエロゲ側の文章を漁ったときに、麻枝や元長の作詞については色々書かれているのに、高瀬の頭おかしい詞やKOTOKOの変態な詞については全然見当たらないっていうのはどうなのよ。あるいは、論じられているけれど認知されていないだけか。
 まあみんなKey周辺にしか興味ない/なかったんだろうなあ。また高瀬作詞しないかなあ(勿論第一義的には彼の作曲・編曲が好きな訳だけれど)。
 あと、現在僕の言う泣きって、読む人が読めば分かると思うけれど、第一にはC.G mixの安っぽい曲調のことだったり。アレ大好き。

 まあ僕はMOSAIC.WAVにもIOSYSにも身体が激烈な拒否反応を示すんですよね。昔自分用に書いていた覚書を穿り返したらこんなん見つけた。1年半ほど前。

 先日電波ソングを聴かされた。電波ソングは聴いていると胃が痛くなる。
 そう、電波ソングは聴いていると胃が痛くなるのです(「理科の時間」という曲を初めて聴いたのですが、アレは最悪の胃痛ソングでした。3日後あたりに「あ、アレは百合ソングなのか?」とか考えるまで、かなり自分の心の奥底を攻撃し続けていた)。つまり、「ああ、僕は桃井はるこに見下されているんじゃないのか」という不安を感じるのです。ルッキズムは仕方ないかもしれないけれども、それを顕わにすることは、してはいけないのではなかったのか? ――「これはフィクションだから」という、無茶な言い訳のことはみんな知っていると思うんだけれども、桃井さんは生身の人間ですよ? 2.5次元とか、何言ってるの?

 今読み返すと、非モテターム全開なのは恥ずかしいからスルーすることにしても、何書いているのか分からないという……。
 頑張って読み解いたところによれば多分、「自分が普段心地よく感じている抽象的な領域にまで電波ソングは現実の生々しさを侵入させるから嫌だ」ということだと思うけど。えっちなのはいけないと思います!

 「電波ソング=現実の生々しさ」という図式は非リア厨房のために是非広めていかないといけないな。


◆CCXVII年雨月21日

 19日の感想だけど、なんで「世界はこのように出来ている。知らない人間を僕は哀れむ」と書かなかったんだろう。つまりそれが今の自分が駄目な原因だ。
 ということで脳内日和見主義者を再教育キャンプに送り込んだ後に訂正。世界はまさに「キミとボクをつなぐもの」(荒井チェリー)のように出来ています。その魔法の力を人類は知り、魔法の論理を解き明かし、地上をより良くしなければなりません。全セカイの同志よ、おっけー?


◆CCXVII年雨月22日

 「Senecio」(詩月カオリ)などを聴いている。詩月-KOTOKOの曲に出てくる女の子はときどき、到底人間には不可能に思えるほど強まる、ということを主張していてよい。こういうのを「別の世界がある」というのかしら。

あなたの夢に
あなたの思う、あなたが作る明日に
気付かないくらい さり気なく咲く花のように
そこにありたい…

 そんなヤバい存在を、果たしてまだ人間と呼べるのか。


◆CCXVII年雨月23日

 さー、一番生半可な知識で語ってはいけない分野を生半可で語りますよ。何しろゲーム。

 弟が少し前に買ってきた「聖剣伝説3」のサントラを聴いていた。「Hightension Wire」はすばらしい、この曲といえば紅蓮の魔道師戦もすばらしい、という話に。アクションRPGにおいて、魔法連続詠唱+殴られてもひるまない、というのはカリスマに満ち溢れていた。ラスボスの竜帝戦はカリスマないしなー。
 (以下は話を単純にするためにRPGのみを考えるけれど)、ターン制とアクティブタイムバトルやアクションバトルというのの違いは、第一義には無限に考える時間があるかないかで、わざわざそういうのを導入しているからには速いことにインパクトがないといけない。オメガウェポンみたいに9998ダメージとかで強いよりも、息もつかせぬ連続行動でぼろぼろにされるほうが恐怖があってよい、という(はどうほう+ミールストームとかクールで良いですよね)。なぜなら、物凄い速度で連続行動されることは「ついていけない」「おいてかれる」という感覚を覚えさせるから。たぶん別れの歌が最高速で唄われる理由その3くらい。
 ただ、攻撃エフェクトが長ければ長いほどスピードがどんどん関係なくなるから(タイムコントロール)、エフェクトを豪華に出来るようになるとその方面で強さを見せ付けるのは難しいんだろうなあ(強い攻撃のエフェクトがショボいのはもったいない気がするし)。FF10以降ATBやめたのはそれだよね。
 強いビーム打てる奴が強い「ドラゴンボール」に対してラスボスは時間を操る「ジョジョ」、とかいう対比にも結びつくか。
 ターン制であっても、例えばドラクエでは強いボスは2回行動だったりしますね。

 で、話の結論は「でも、一番怖いのはウルフデビルですよねー」。


◆CCXVII年雨月24日

 とりあえず片方のみメモ程度の返信を。
 折角の長文を頂いたのに申し訳ない気分でいっぱいですが。これでもかなり時間かけて書こうとしたんだよ! 3時間ぐらい考えたのにコレだけしか文章にならなかったんだよ!
 論理的な文章を書く能力が低すぎる。

 問題にするべきは時間。
 ぐうの音も出ないほど圧倒的に正しい。けれど、「無時間的」な空間で「一定速度で時間が流れる」とはどういうことを指すのか? というと、正確に述べるのは難しくて。
 単に四角いコマ4つが並んでいるだけというのをフォーマットレベルでの時間操作とは呼びがたいものがある。そうではなくて、あの時間を生み出す本質は、見開きあたり16コマ、が何百ページも続いていることにある。量が時間を発見させる。
 萌え4コマの時間というのはそういうものなので、ほんの一部分を切り出しても時間の流れを見出せる類の漫画とは区別しなければならない。そこから整理すると、微小区間を取ってもそこで時間の流れている→連続的(正確に言えば稠密)、微小区間をとると時間が流れていない→離散的、という整理になる。ガチで一定速度で時間流そうと思えば天野こずえみたいなの描けばそれで十分な訳でさ。時間が流れているって全く非自明なことだと思うんですよね。
 やはりギャルゲーのカレンダの話に行き着くのだろうか。

 あと別の方向からの手がかりがあるとしたら「Grow me」(AKI)のラップ部分で。やっぱI'veは何でも見通せますね。I'veを持ち出すの禁止にせねば。


◆CCXVII年雨月25日

 昨日のでは殆どの萌え4コマはまだ説明できないな。特に海藍とか無理。実際にはやっぱりキャラクタの特徴とイデオロギーを見なければならない。「4コマ」と「萌え4コマ」の呼称の違いから言ってもキャラクタはかなり本質っぽいし。
 キャラクタの本質が嫌になるくらいの繰り返しというのはまあ2次創作ばっか読んでいるからこそのものの見方でどこまで妥当性があるかは分からんのですが。
 まあ、フォーマットだけで全部説明できるわけでもないのは当たり前だしあの議論はあの議論でいいのか。

 萌え4コマの極北みたいによく言われる「ふおんコネクト!」(ざら)だけれど、この点はかなり常識的なことをやっているように見える。単純に上手いからなんだけれど(でも連載初期のころの絵柄のほうが好きだった僕。あのころの絵だったら連続性についても意味合いが変わっていた気がするなー)。かといって、下手じゃないと萌え4コマとは言えない? まさか、それは言いすぎ……だよね?

 ところで「ねぎ姉さん」には多分等間隔な時間が流れていなくて、それは作品の内容(4コマで論理的に完結している)もさることながら発表形態が大きい。あれが書籍になって見開きあたり16コマになったら多分もうちょっと時間が流れる。

 ゲームの話。まあ一部の■ゲーしか例に出せないのは知識が狭いな自分としか言いようがないけど、お返事。
 とりあえず、FFTはアクティブタイムじゃないので話が別な気が。あくまであれはATBの限界というのをメインに考えていたので。勿論、「エフェクトの古さ→禍々しさ」という効果はあるので、ATBじゃなくても速度の問題は関わってくるとは思いますが。
 七英雄については、「合体」が本質で、つまり統一した意識を持つ1つの主体が高速っていうことは単純に相手の思考速度が速い、という意識があるので、あれが全員集合して殴られたりしたら全然イメージ違っていたんじゃないかと思う。まあそちらには(同じSFCのスクウェアで言えば)インフェルノ、クレーン、封印されしもの、など色々いますが。あとはアルジャーノンとかそうなのかな?
 FF10なんかは割と時間への意識あるんじゃないかしら。カルテット99や訓練所のインフレの印象がアレで印象悪いけれど、実際のところかなり頑張っていて、ギガグラビトンの迫るシン本体戦とか、一番よく遣うアビリティが結局クイックトリックだったりとか。まあプレイを横でずっと見てただけだけどな!
 あと、大艦巨砲主義はボスの攻撃については割とそうなんだけれど、ナイツオブラウンドもエンドオブハートもウィッシュスターもエース・オブ・ザ・ブリッツもテンプレーションもみんな多段ヒット攻撃だったりするのは、ダメージを単純に増加させる意味もあるけれど、それ以外にも、まあその? とか、考える余地はなくもないと思います。何を擁護側に回っているんでしょうね僕は。


◆CCXVII年雨月26日

 ヘボさを捨象する議論はいただけないと思う今日この頃。

 佐々木さんが当て馬と看做している人が結構いるらしいがまともに小説読めてなさすぎだろ。僕も大概流し読み人間だけれど流石にそれはまずいと分かるぞ。
 これで一度書いたようなものだけれど別の視点から整理すると。
 「消失」は勿論傑作で、何がすばらしいかというと第一には表紙の朝倉さんのあの表情(前提とその崩し!)、第二には最初のセンテンスから既に伝わってくる「この作品ではさらに高みを目指しますよ」感、なのだけれど。で、それらの次には勿論、キョンの決断シーンはシリーズの問題系を変換する重要な場面だ、という話になりますが。勿論あそこでああいう問題系に意識が行くことは完全に正しいのですが。
 自分がもし偽者だったら? 自分が誰かのエミュレートする仮想空間上の存在に過ぎなかったら? というのがキャラクタの存在論の根本にあって(だって実際、キャラクタというのはフェイクだし)。「消失」で谷川流が保留したのは――保留といっても、キョンは迷うことなく本物の特権性を振るったのだけれど――まさにその問いで、「分裂」ではそこをついに問題として取り上げにかかった、と見るのが自然。つまり、「本当は佐々木さんが能力を持つはずだった」というのは、事実そうなんだと読むのが自然ですよね?
 勿論そこらへんを読み替えて2次創作するのは正しい(それを人は世界改変能力と呼ぶ)けれど、単なる一読者が、しかも単に退屈な認識を振り回すだけじゃ、ねー?

 でもこの問題は難しいよねー。2つの世界のゼロサム対立と看做す態度は取って欲しくないのですが、でも"ハッピーエンド"にしようとすると全然自己同一性の問題をわかってないよこいつ! ハードSF読んで勉強しろ! みたいなことになってしまう。

 ということで、この難題を朝倉さんの誇り高さと絡めて華麗に――たった一言で――処理した「喜緑江美里の憂鬱〜the melancholy of fake star〜」はやはり大傑作ですね。超泣ける。読んでない人間はモグリ。


◆CCXVII年雨月27日

 同人幻想(しかも夢見がち人見知り系)丸出しで痛々しいかもしれないけれど、あんまりそういうところで擦れたくはないです、という意思表明をかねて今日の覚書。

 COMITIA88に行きました。「なにもないまんがx2」(下り坂道、双見酔)を買いに行こうと思ったのですが、それ以外にもついつい色々買ってしまいました。
 双見さんにスケッチブックをお願いしたところ快く引き受けてくださって、アンニュイな作者代理さんの絵を頂きました。超うれしい。イベント行くようになって5年目だけれど、スケッチブックの依頼をするのは未だに緊張する……。テンパってすぐに変なことを言ってしまいます。

 花苺さんが本を買った人にチョコを配っていて、ああ、この時期のイベントだとそういうのもあるのかー、と驚きました(それにしても花苺さんのセルフプロデュース能力は凄いな、と思わされる)。


◆CCXVII年雨月28日

 適当に書くと頭のいい人が訂正してくれる贅沢。
 はい、そうですねー。それは否定のしようがない。確かにあそこで「フェイク」という単語を出すのは間違っている。色々言い訳しようと思ったけれどそっちに書いてあることと同じことをこっちで鸚鵡返しになるだけなのでいいや。ありがとうございます。

 ということで結局問題にするべきはフィクションの世界を内部から見たときのルールなんですよね。「フェイク」という言葉も内部から見たときの実感――黒須太一の「怪物」のような――として扱わなきゃいけない。

 しかし、キャラクタって他者論なのかなあ。ここでひとまず考えるべきは自己と主体についての論だと思うんだけれど。
 例えば理想的には、絶対的な他者に、その存在を制限する枠組みなんてないと思うんですよ。それはただあるかないかで。
 それが表象されたら他者じゃなくて幻想では?

 追記。勿論キャラクタについて論じるときに他者論は重要だけど、この問題において持ち出すべきなのかなあというだけです。話がここからsplitするならそれはそれで。


◆CCXVII年雨月29日

 リンクしていいのかな。うーん、まあしてしまえ。アレならそう伝えていただければすぐ消します。

 フォーマット話。
 なぜそこでキャラが出てくるか、ですが、まあ「上手く説明できない部分が色々あって、まだこの議論で出てきていない重要なものはキャラとイデオロギーだから、まあキャラは重要なんだろう」くらいのノリで書きました。てへ。
 ……もうちょっと真面目に答えてみると、萌え4コマほど抽象的な世界で、それぞれの4コマが時間的に関係していると感じるためには、キャラクタの力がないといけないからではないでしょうか?
 このキャラクタが存在しているのは間違いない真実→キャラクタが存在できる程度には時間も流れているんだろう、という順序で認識が働いているのではないかなあ、と(当然無意識的な部分でですよ)。それほどまでに萌え4コマの世界というのは根拠薄弱で非物語的なものです。
 例えば「気体に熱Qを加えたところ体積がV1からV2に変化した」とかいうのを考えたときに、それは人間の脳の認識的には時間的な変化として処理されてないですよね。非実験的な自然の考察は多かれ少なかれ、瞬間瞬間を取り出してそれらの上手い比較をする、という面がある(極限操作も瞬間的な枠組みの中で連続をうまく手懐ける方法の1つだと思う)。萌え4コマからキャラを抜いたらそれくらい――自然科学の思考実験のように――抽象的な世界になってしまうと思うのですね。

 堀宮のスタイルについてはウェブコミックを熱心に読み漁っていた2-3年ぐらい前の僕に訊いてみたいところですね。あの人だったら豊富な実例を挙げながら分かりやすく説明してくれるんじゃないかな。でもいまいち連絡が付かないので現在の僕がつまらない回答を。
 タテに延々4コマを並べることについてはやっぱり、ゆっくり時間が/事実が積み重ねっている、という感覚に寄与していると思います。でももっと本質的なのは、背景の色遣いや(あの、ブラウザでしか再現できない)線の雰囲気じゃないかなと。ブラウザマジックと言い換えてもいいか。4コマとかいう以前にウェブコミックの形式という問題は果てしなく巨大です。しかももはや敗者の歴史化しかけてるし。
 つまり、堀宮について分析するときに、「タテに4コマが延々並んでいること」というのにわざわざ注目する根拠というのが薄弱なので、擬似問題的なにおいがする、と。Pixivで連載されているようなやつならば全く話は別で、そういうのにはタテに並べることが本質に関わっている気がするのですが、あまり追いかけていないので分析は残念ながら。すいません。Pixivは追いかけないとなー。
 あ、堀宮は昔読んだのですが、途中で鬱りかけて読むのを中断しているので、作品の狙いなどについて勘違いがあるかも。

 ところでここ最近の「WORKING!!」(ウェブ版)が神がかりすぎだと思うんだ。神がかるのこれで何回目だよ高津カリノって感じだけど。本当に凄いなー。
 キャラが勝手に動くを通り越して、キャラが自らの過去を創造しだすという。


◆CCXVII年雨月30日

 弟は当然運動部を強く軽蔑しながら学校生活を送っているらしいのだが、そんな彼から今日送られてきたメール。

 「漫画に感化された。バンドを文化祭でやりたい。やっぱりみんなでそういうことやるの良いと思う」とか云ってた運動部の野郎共
 その漫画がけいおんだと確定して衝撃を受ける僕

 どこからツッコめば……。

 はい、そんな感じです。ただ、そういう立場から見るならば「離散性」とは呼ばないほうがいいかも(ツッコミじゃなくて自分への注意)。「離散的」というのは萌え4コマ中で保証されている時間が普通イメージするような連続的なものではないということを指した言葉であって、キャラクタの人格自体はその時間全体にわたっているので。
 パチュリーの胸については、「コンテンツの思想」4章に「朝比奈みくるの乳輪問題」というそのものな話題が挙がってまして。


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