■ notes / germinal an CCXVII




 まあ、私の胸が痛いのは、今日に始まった話ではないので、どうでもよい。

- 「光莉さんはお勉強中」(ストロベリーパニック!でエロパロ、>>198-)







◆CCXVII年芽月1日

 へろへろながらも2ヶ月続いた……。
 春です。字が壮絶に読みにくいですねごめんなさい。スタイルシート切るなりなんなり。

 やらなきゃいけないことから逃避して「ヒトクイマジカル―殺戮奇術の匂宮兄妹」(西尾維新)を読んだ。「ザレゴトディクショナル―戯言シリーズ用語辞典」をこの間読んだ勢い。
 まあ普通に神ですね。キモいくらいの一人称、時間管理への強い意識、前半で現れた単語・センテンスを重要な場面で再提示する技術。それらが実存的問題に結び付けられる様は、まさにプレZUN、プレcosMo。
 ということで、そこらへんは読む前に抱いていた印象と大体同じなんだが、実際に読んでみて不思議に思ったのは、そういうものがこれだけ安定しているということ。西尾フォロワーと西尾の最大の違いはそこか。理解できないというか、少なくともとんでもないことに思える。なんだそれ、としか。
 そこで驚くのは、僕の視点の偏りなのかなー。


◆CCXVII年芽月2日

 引き続き西尾を再読。「クビシメロマンチスト―人間失格・零崎人識」。傑作だな。
 ミステリなので、ネタバレ感想は反転しておくべきか。

 ええと。普通に上手いので、普通に評価する文章は書かれている。ので、そういうことは書かない。

 えっと、まず、なるほど、
 「非コミュのいーちゃん、いきなりクラスの人に絡まれる。誕生日飲み会に強制出席させられた挙句、自分を巡って殺人まで起きた。お前らどんだけ元気なんだよ、と引くいーちゃん。社会不適合者同士、夜中に殺人鬼とだらだら語り合うのが彼にとっての癒しの時間です」
 と要約したくなるなあ(実際にはいーちゃんを非コミュと呼ぶことにかなりの問題があるが)。大学生のリアル、って奴ですね。まあ、発売時期からして、こういう纏め方をするのはアンフェアではあるけれど。それにしても、ちょっと自分に似た人を見つけるとすぐに同族意識を持ちたがるいーちゃんには、「甘えるな」という言葉がお似合いだ。

 巫女子ちゃんについて。知り合ったばかりのいーちゃんにベタ惚れ、智恵ちゃんといーちゃんとの初対面ののちには、障害になりそうなので智恵ちゃんを即刻殺害――というのは、まあ、引く。流石に引く。かなり引く。
 ちなみに、これについては西尾維新も、

 もっとも非情だと言われる『クビシメロマンチスト』における彼の行為も、色々な要素を取り除いてみれば、そこまで責められる類のものではないだろうし。

- 「ザレゴトディクショナル―戯言シリーズ用語辞典」

と書いている。西尾のそういう感覚は信頼できるよね(あるいは、「かつては信頼できた」なのかもしれないけれど)。
 それから、智恵ちゃんが意外とリア充コミュニケーションスキル高い人で驚いた。えー、という感じ。あと、未成年喫煙者だらけなのも。それこそ現在の視点から見てはいけないのかもしれないけれど。


◆CCXVII年芽月3日

 きららMAXと百合姫Sを購入。色々思うところがあるので後日はてなの方で感想書ければいいなー。
 どうでもいいことを1つだけここに書いておこう。倉田嘘の漫画は、笑いこけながら読む分には百合姫Sでも相当面白い部類に入るけれど、今回の作品は今までに比べればまあおとなしい感じで、ちょっと寂しい。とはいえまだ十分ひどいんだけれど、もしこのまま成長して普通の作家になったら、つまらないというか、寂しいなあ。


◆CCXVII年芽月4日

 「ぼくたちには野菜が足りない(畑に関するLesson1 それ絶対植えてみよう!)」(淺沼広太)を読んだ。
 猛烈なヘボさ、天宮霞のような、全人類の震えるヘボさを期待して読んだのだが、作者はちゃんと小説を書く能力がある人だったようで。普通によく仕上がった設定の笑えるラブコメだった。
 なるほど上手い、が、僕が読みたいのはどうしようもなくヘボいものだったんだよなあ。設定やネタ自体はすばらしい弾けっぷりなのに、それが綺麗に調理されている……ということは、作者の能力を評価するべき、ということなんだろうけれど、うーん。
 とりあえず上手いものが読みたい方にどうぞ。


◆CCXVII年芽月5日

 「いつかまたかえる」(荒井チェリー)を読んだ。
 「ワンダフルデイズ」において描かれる妖怪と人間の関係は、驚嘆して拍手を送るのみだった。ただ、あの関係を見て当然のように浮かぶ疑問として、不老不死の人間(不老不死の妖怪ではなく)を荒井チェリーはどのように描くのか、そしてどう評価するのか、ということが。
 僕はこの本を、その問いに対する回答を与えるものとして読んだ。

 神の眷属だから不老になった。コレは簡単。しかし、神の眷属だろうが神だろうが殺されるときは殺されるわけで、そこで不死を実現する手段としてギャグマンガ体質というのを持ってきた、と看做すべきだろう。発想が極端に鋭い。ただ、コンパクトに纏める荒井チェリーの良さを失っている気もしなくもなく。

 基本的に荒井チェリーというのは優しい人で、だから妖怪も不老不死もすべて人間と同じように描く。人間同士が理解できるように妖怪とも理解しあうことは可能であり、妖怪が理解の及ばない外部ならば人間も同じだけ理解の及ばない外部である、という風に。僕は、作品を構成する道具としてではなくひとりの隣人として妖怪をみるときの優しい態度は、それしかないと思う。
 ただ、それを選ばれた存在の中でしか通じない話だ、と責めることも多分可能で。その通り、基本的に荒井チェリー作品っていうのは選ばれた存在たちの漫画なんだけれど、この作品においてはそのことを明示的に描いているのが面白いかもしれない(水祈はまさに「神に選ばれた人」)。その残酷さも、少し見える。


◆CCXVII年芽月6日

 「ゆゆ式」(三上小又)を購入。天才の所業。
 なんというか……あまりに凄すぎる。三上小又は最初から全部正しかった、圧倒的に徹底的に正確に正しかったのに、それに気付くことができなかったのだ、と。小さな枠組みでは十分な評価は下せない、と理解できたのはいつだったか。昔はてなのきらら感想で書いてたこととか読むと、恥ずかしくて申し訳なくなる。釈迦に説法すぎ。
 何書いても恥ずかしいので細かい技術については触れないでおいて、以下ではこの作品の凄さを大まかに説明することにする。

 ではまず、次のことを確認しよう。
 会話はそれ自体が喜ばしい。会話は政治的であり、政治的だから会話は喜ばしい――のではない。会話が政治であるかどうかに拘らず、会話は喜ばしい(これは、会話は必ずしも政治的でない、ということを主張している訳ではない)。

 例えば、かわいいものを前にして、「かわいいことは政治的であり、政治的だからかわいいことは喜ばしい」と大真面目な顔で主張する人間が居たらどう思うだろうか? そのような主張は、たとえ正しかったとしても、認識の形態自体が間違っている。かわいいものを莫迦にしないと、そのようなことを完全に信じ込むことはできないからだ。同様に、にやにやしながらすぐに自分たちの会話を政治的だ政治的だと言い出すことが、どれだけみっともないことか。

 普通の漫画における会話は、実際の会話を単純化したものとみることができる。しかし、「ゆゆ式」のように高い狙いを持った作品においては、会話の複雑さの縮減は致命傷になる(例えば、実際の会話の中で言いよどみがどれだけ重要な役割を果たしているか)。会話の力学系が織り成す多様なパターンを描写するには、今までよりもう一段高い精度で会話を描写する方法を考案する必要があった。
 幸いにも、彼は三上小又だったので、彼はその必要な手段――その狙いを実現できるほどに高水準・純度イレヴン・ナインな会話を描写する手段を編み出し、かくしてあるあるネタはその長い歴史の中でついに命を吹き込まれた。親戚の子は起毛のソファを撫で、雪には動物の魂が入っている。
(それは「あずまんが大王」(あずまきよひこ)からきらら系にいたる道で無視された可能性、と看做すのが一番いいと思う)

 最後に、会話の描写について、「ゆゆ式」が達成したことの例を1つだけ挙げておこう。
 この作品は、「人間は会話をしながら、会話がどう動いているかに意識を向けている」ということに意識を向けさせた(込み入ってるな)。いついかなるときでも、会話をしているとき、人間は相手の考えたことを想像しながら喋る。意味も内容もない会話(あるいは、意味と内容しかない会話)においても、いや、そこにおいてこそ、それは起きている。

 そこから始まるせつなさもあったり。という話は難しくて整理が付いていないので止めておく。


◆CCXVII年芽月7日

 昨日の話で思い出したけれど。
 萌え4コマをどう定義するか問題というのがあるけれど、系譜学的には「『あずまんが大王』を祖先に持つ4コマ漫画」が一番簡明じゃないでしょうか(祖先ってなんだよ、というツッコミは系譜学の難しさであってこの定義の難しさではないので無視することにします)。
 今はきらら系が収穫の秋を謳歌しているけれど、他にも色々なパターンはあると思う。「あずまんが大王」は時代を10年先取りしていた。もしかしたら15年先取りしているかもしれない。


◆CCXVII年芽月8日

 自戒を込めて。

 天然モノの天才を目の当たりにして、あのようでないと本物ではないのだ、と凹むことは、端的に言って無駄ですよね。
 とはいえ、そうやって凹むのが樂しいことは疑いようもないので、まあ、丸1日凹み気分を満喫したら、次の日からは気分を切り替えるようにしましょう。勝てば官軍、成功すれば天才。
 あと、成功したあとに天然のフリができれば、これ以上なく樂しい人生だと感じられると思わないかしらん?


◆CCXVII年芽月9日

 ハーゲンダッツのアフォガートを食べた。おいしい。


◆CCXVII年芽月10日

 起毛をずっとなでてた。おもしろい。


◆CCXVII年芽月11日

 書くネタがないのが見え見えですね。でももうちょっとだけ続くんじゃ。日付を飛ばさないで更新という縛りは厳しいなー。
 @sayukさん、@ke_taさん、@tacylさんあたりの「ゆゆ式」トークがあまりに熱すぎて何か書こうと思うんだけれどなかなか言うことが思い浮かばないですねー。まあ僕が語りたいようなことで僕の思いつくことは言い尽くされてるということか。

 「AURA〜魔竜院光牙最後の闘い〜」(田中ロミオ)を読み返した。
 最後に「邪気眼が植民地化される」というオチへしっかり持ってきているんだよね、というのを再確認。善い、とは思わないけれど(どっちかってーとそれをハッピーエンドに見せているのはどうなんだ)、非常に眼が冴えている人だなあとは思う。
 勿論僕は邪気眼のポストコロニアル世代なので、自らの邪気眼性がグローバリズムと対立するのではなく、そもそもグローバルなものを媒介して現在の僕のような邪気眼があるのだ、という認識はしとかないといけない。かといって、グローバリズムと手を繋ぐのもどうか、という話はあるが。

 あと、子鳩さんがちょうかわいい。
 戯言遣いや嘘つきさん、適応係数86の怪物……そこらへんの類型の人々はどいつもこいつも、自らを「感情の部品が足りない、どうしようもない欠陥品だ」みたいな感じで評していたけれど、逆向きに欠落してるよりは幾らか理解できる存在なんじゃないのか。
 つまり、悲しみや、悪意や、あるいは怒りが欠落しているキャラクタということだけれど。


◆2009年4月1日

 バイト始めました。


◆CCXVII年芽月13日

 今日の夜、布団で寝転がってたら弟が隣の部屋からいきなりやってきて「荒井チェリー凄すぎない!?」とか裏返った声で叫んできたので、その場の勢いで「いつかまたかえる」のプチ読書会(参加者2人、20分程度)が開かれました。
 5日の覚書の時点では「いつかまたかえる」の「面白さ」については理解しきれていなくて書かなかったんだけど、弟と話し合うなかでこの漫画が大傑作の必読書であることがよく分かってきました。
 以下、プチ読書会で出た意見。

・キャラクタが全員相手の話を聞いてなくて、自分の話したいことを勝手に喋っているだけで、そこがサイコー。
・ページめくったら突如事故に遭ったり(P50)、ページめくったらハンマーで殴られたり(P62)、とかいうのを脈絡を全省略してやるのは凄い。何はともあれP50のインパクトは最強。
・というか、4コマという形式から解放されたことで荒井チェリーはボケ-ツッコミの詰め込み限界に挑戦するようになったのではないか。P13とか、1コマ目から5コマ目までをフルにつかって畳み掛けていて、画面端に追い詰めてエリアルコンボを食らわせるかのようなスピード感がすばらしい。
・ボケが詰め込みまくりで、連発される小ボケを全てツッコミ役(水祈)がかまうことは出来ないので、ベースラインが小ボケ連発状態となる。これがハイテンションの下地。
・荒井チェリーの作品においていつものことだけれど、キャラたちが間違いなく人間のある種の面を切り取っている。こういう頭のおかしい奴は、いる。この手の人間性を描写する能力については右に出るものがいないですね。
・あれだけ連載を抱えながら、漫画の構造を詰め込み式にしようとしたのは変態だと思う。
・荒井チェリーを「安定」と評するのはおかしい。この人は異常すぎる。天才。神。

というような感じでした。
 ボケ-ツッコミ密度の限界に挑戦するというのはとても面白かったので、これからも非4コマ媒体で描いていってほしいですねー。


◆CCXVII年芽月14日

 shovさんのエントリ(やすなから「キルミーベイベー」を眺めるというのは、言われてみるとなんでそれが思いつかなかったんだろうという感じですばらしいですね)にfamineさんが反応してたので、2つ補足。
 この2人の遣り取りのあとで非本質的で密度の薄いことを書くのは気が引けるんだけど。

 ひとつめ。

しかしここで真に問題にすべきなのは、「萌え4コマでさえ時間経過というフィクションの古典的なシステムからは逃れられない」ということではないでしょうか。

 特殊な枠組みっていうけれど、普通の枠組みのほうがむしろ例外なんじゃないでしょうか。「ねぎ姉さん」みたいなものまで全部含めて、論理的に可能な漫画の全パターンを考えたとき、古典的な漫画というのはその中で時間経過という古典的システムが全て上手くいくように条件が揃った特殊な例に過ぎない(あるいは、古典的な漫画は唯一僕たちの身体を「馴らす」ことに成功した、といってもいいか)。一部の萌え4コマはその枠組みを拡張する試みなんだから、今までの漫画から見れば畸形的で特殊に見えるかもしれないけれど、それはまあ制度が未成熟なんだから仕方がない。
 だから、たとえば確かに三上小又は現時点では特異な天才ですけど、そんなこと言ったら手塚治虫も特異な天才だったわけで、現時点の話をするならともかく「萌え4コマの『時間』が、積み上げられてきたページの量によってのみ重さを持つのであれば、時間の流れを意識させないような積み重ね方も追究されてしかるべきでしょう」というのはまあその通りじゃないかなあ。時間という制度の漫画上における奇妙さは、まだまだ悪用できる余地があるはずなので。
 退屈さを回避しようとすると古典的時間経過が不可避、というのは結論を早く出しすぎだと思います。
(しかし、こういうことを書いていると思うけれど、萌え4コマ時空の検討ってハードSFちっくですよね。身体や宇宙や知性のありうる形を妄想するのと、フィクションのありうる形を妄想するのは、気分として近いと思う)

 ふたつめ。

殺し屋は殺しをしなければ殺し屋ではありません。しかし、忍者は忍者的なふるまいをしているかぎり忍者であり、その自由度は比較になりません。

 平然と壮絶にシュールな文章を書いていて、しかもそれが確かにその通りで反論のしようもなくて、感動した。文章センスありすぎ。
 ただ流石に飛ばしすぎなので。
 えっと、忍者というのも、本来は伊賀や甲賀だのあって、諜報や秘密工作をしてて……という規定する制度と役割があるはずなのだけれど、現代社会においては仕事として成立していない。一方で「忍者キャラ」というイメージは広く流通していて、そのイメージ自体は制度や役割と切り離し可能である。「忍者は忍者的なふるまいをしているかぎり忍者」というのは、そういう事情に因っている(本当はこの分析でも不十分な気がするけど、忍者というのがヘンなものであることは間違いない)。
 つまり、裏社会側にありながら自由なキャラクタが要請されたから、制度からイメージの浮遊した「忍者」という身分があぎりさんにあてがわれたのではないかと思うんだけど、どーでしょー。

 ああ自分の文章がつまらない。いつの間にこんなマンネリになったんだ。ここのところ漫画読まずに小説読み返してばっかだったからか。


◆CCXVII年芽月15日

 アニメ版「けいおん!」第1話、みたよー。

 僕は普段一切アニメを観ない人なので、つまらない感想になりますが。
 平均的なアニメと比べてどうかは分からないけれど、とてもよくできていたんじゃないでしょうか。以下、箇条書き。

・なんか、時間的空間的にしっかり広がりを持った世界の中にあの軽音楽部があって唯たちがいるんだ、ということを強く意識させられるような演出だったような気がする。モデルの学校を精密に再現しようとする京アニ趣味とかもそうだけれど、この種の空間強度への偏執的な欲望というのはなんなんでしょうか。僕の趣味ではない(僕は作品世界かりそめ説のほうが好き)、けどここまでやられると流石にとんでもないぜ、という感じ。詳しくはshovさんあたりが何か書くんじゃないかな(無茶振り)。
・唯がマジヤバくて惚れそうです。こんな過激な解釈を示してくるとは……。白痴の神性剥き出しで鳥肌が立ちますね。Key作品のアニメ化やってたこととかも絡められるのかな?(スタッフ重複も知らないしそもそも観てないのでテキトウ)
・ムギの内面描写があったのが割とびっくり。原作では百合妄想以外に心理描写はなかったよね確か。
・兼部しろよお前ら。

 こういう風にアニメが上手いと、かきふらい先生が変に影響受けそうで嫌ですね。かきふらいにはこういうのとは別の境地を目指して欲しい。生気のないハンコ絵のままでいてほしい。生命を吹き込まれたキャラクタのヤバさではなく、ハンコ絵に宿る神聖さを追い求めて欲しい。


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