■ notes / Fructidor an CCXVII






みんなが大好きだ、もういない訳だから。

- きょうじん





◆CCXVII年果実月17日

 もうずいぶん頭も悪くなっちゃったけれど、なんでまだ生きてるかって、綺麗な夕焼けをみるためっていうのが5割くらいかもしれませんね。

 えいえんがどうとか世界滅びろとか言ってる人は、大体直接の元ネタに「Komm, susser Tod」があるけど隠しているっぽい、ということに気付いた! 爽やかな長調の絶望ソングが好きすぎるぞ自分、というのはともかく、エヴァ世代より下の人だと騙されがちなポイントな気がする。SiTubeさんの絶望の妙な穏やかさ、とか。
 うーん、やはりエヴァは偉いのだなー。というかEoEが偉い?

 今年の夏の目標は「MK2力を付けよう」だったのですが、極端に穏やかな生活を送るというのはいいかもしれませんね。


◆CCXVII年果実月22日

 文章の調子が戻らないです。リハビリリハビリ……。

 愚かな行為が絶えないので書いておく。
 工学的にデータ取りたいときとかを別にすれば、「曖昧な言葉は定義して話そう」とか言うのはそれこそ不毛なので絶対止めるべきです。確定記述相手に取り組んで樂しいこととか何もありませんし、大概の場合その言葉の本質には「曖昧である」という性質があるので、「如何にしてこの言葉は取り扱われるべきか」を話すことこそ必要。

 あまりに誰もが読め読めと言っているので逃げて回っていたのだけれど、ついに観念して「咲-Saki-」(小林立)を読んだ。
 ああ、ポスト東方だなあ、という感じ。

 当たり前かもしれないけれど念のために確認しておくと、誰より誰が強いというのは、解釈の枠組みを提示する行為ですよね。安定的な解釈の枠組み(例えば、昔の少年漫画とかはそうだったらしいですね、知らないけど)が存在する場合にはその枠組みに従ってそれなりにちゃんと定まるのだけれど、そうでないとナンセンスがどんどん拡大していく。例えば、各種強さ議論スレにおいて議論がどんどん形式的判断になっていくのを思い出そう。
 ある時期の東方においては、物凄い数の2次創作作家がハチャメチャな解釈の枠組みを凄い勢いで提出しまくっていた。この現代においては、「強い」というのは「そのキャラクタの司る概念に強度があり、キャラクタと概念の結びつきが強いこと」と言い換えられてしまうわけで、しかも東方なんて(少なくとも当時は)物語の欠如と記号の氾濫(←こういう凡庸な表現はあまりしたくないのだけれど)が著しかったので、キャラクタの性格が際限なくハックされまくっていて、そんな訳で「誰が強いか」という問いは「どの2次創作がアツかったか」ということになってしまっていた。しかしこの「どの2次創作がアツかったか」という状況こそ、強さを巡る議論の真の姿である。

 で、ポスト東方というのがどういう意味なのか、ですが。
 「咲」は能力者バトルなのですが、にもかかわらず、かなりのキャラクタについて「こいつ相当強い」と言い張れるな、と思いました。衣とか咲が一応偉いということになっていると読むべきなのでしょうが、多くのキャラについて、そいつが衣や咲に必然的に勝つ姿を思い浮かべることができます(「必然的」というのはつまり努力とか友情とかで強敵を打ち破るのではなく、格が上だからふつーに勝つみたいな状況のことです)。僕の知見が狭いだけかもしれませんが、それって結構珍しいようなことの気がして。
 まあ何故かというと、1つには麻雀が殺し合いではないということで。殺し合いだと「時を止める」とか「シールを貼ると物が分裂」とか、実際に現象界に直接影響を与える能力があって、その中でも世界そのものや概念に直接結びついている能力は大概強い、ということになっているため、キャラクタの強さはその実際の能力の壁を超えられないのですが、麻雀は本当に「この人間はこういう概念の化身だから強い」というだけなので、そのキャラを格好良く描けば、例えば天江衣よりも強いみたいなのは普通に可能である、と。
 もう1つには、麻雀勝負をしているだけで、それ以外のシーンがそんなにないので、読み込み可能な解釈の幅がかなり広い。しかもバトルしてるのは全員美少女な訳で、その意外な魅力を引き出す解釈の枠組みを探したいと人が一所懸命になるのは、三平方の定理よりも当然のことと言えましょう。


◆CCXVII年果実月23日

 最近の自分の文章がつまらない理由を分析したら理由が分かったので(説明を飛ばすことは正しいの原則)、そこらへん意識しつつ感想を書いてみた。自分では割といい出来だと思う(自画自賛)のだがどうなのかな。
 とりあえず「さむどら」はマジヤバいので皆さん一刻も早く読みましょう。もしかしたら「ゆゆ式」以来。


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