■ notes / Les Sans-Culottides an CCXVII





 そう。とっくに私は、幻想郷とかいう所の所在地と行き方の両方を知ってる。
 恋に恋する私みたいな奴に入れないわけが無い。なめんなよ?

- 「あの星には会いたい人がいるのさ。」(shinsokku)





◆CCXVII年美徳の日

 この月の色遣いはどうしようか結構悩んでいたのだけれど、結局単なるお気に入りの配色にしてみました。

 DS版ファイナルファンタジーIIIをプレイしている。現在の編成は忍者・導師・魔剣士・風水士で、ドーガ&ウネを殺したあたり。
 キャラクタのグラフィックが完璧かつ無謬にかわいい。打撃のテキトウに腕を振る動作、魔法の溜めポーズ、買い物の装備可能確認画面などが特にすばらしいと思います。
 ゲームバランスがやや大味なのが気になるが、FFの半分くらいはそんな感じだししょうがないか。

 ラブプラスを知人にちょっと触らせてもらったのですがインタフェースが受け付けなくて1日目夜で放り出してしまいました。この手のゲームでインタフェースがぼろぼろなのは致命傷だと思うんですが……。
 内容も、やる気ない系男主人公を遣わない時点で戦術自由度低すぎに見えるので、なんだかなあ(←どう考えても享受している作品が特殊にチューンされすぎ)。現実・人生を目指しているのは非常にいいと思うんだけれど……。まあ、1日しかやってないエア批評だから実際のところは知りませんが。


◆CCXVII年才能の日

 FF3、うっかり記録を消してしまった。ううう……。

 男性向けヲタ作品について。
 現在普通の作品に普通に出てくる主人公とかヒロインというのは非常に特殊で、例えばヒロインというのは可愛くて魅力的でなければいけないのですが、にもかかわらず(非18禁メディアにおいては)直接的な性描写は禁じられています。その矛盾をどう潜り抜けるかということに長い長い時間がかけられてきて、様々な技術的蓄積がなされてきたその結果、可愛いヒロインをデザインするなら「直接のエロを避ける」方法を用いたほうが簡単に高い品質のものが作れる、という転倒した結果になっています。あらゆるものがそうであるように、男性向けヲタ作品にもこの手の転倒が数多くみられます。
 現在僕が一番注目しているのは(まあ今までに書いたことを読んでいれば分かると思いますが)、主人公というのがどのようにして成立しているのかです。多くの男性向けヲタ作品において、ヒロインはキャラとして輝くために(勿論キャラというのは現在ヲタ作品において根本的な目標な訳です)、主人公に対して恋愛の含みを抱いた関係を持つことを要請されます。しかし、読者はヒロインと特定の相手の間に恋愛が成立することを忌諱します(なぜなら、誰々のことが好きな――という状態をヒロインが持ってしまった時点で、テクストから遊離して確かにそこに存在するキャラ自身という感覚は得がたくなるからです)。現在普通にみられる主人公というのは、「〜だから感情移入しやすい」みたいな説明をよくされていますけれど、それは全部じゃないにしても半分以上嘘で、そうではなくて、主人公の存在する場所が多層的なので、「主人公に感情を向ける」ことが作品世界内の出来事として記述できず、そういう認識が成立してないからじゃないのかな、という風にみえます(つまり、「感情移入」という言葉で普通連想するものとは違うことが起きている訳です)。恐らく初期にはそういう多層的主人公って幽霊のように無個性だったんじゃないかなあと認識しているのですが、で、魅力的なキャラを増やしたいという絶対的要請に従って、現在のようなやる気ない系男主人公というのは出来上がったと。
 しかし、実際のところこの「多層的」がどう実現されているかというのは感覚を超えては上手く説明できないというか、分からないので、しばらくそこらへんについて考えていたりするのです。まあ、よくわかんないんだけど。


◆CCXVII年労働者の日

 つづき
 そのような男主人公を前提とした環境においては、女性キャラは「主人公=対象Nullに感情を向けている」ということを前提として作られます。最も典型的なのは、パー速の新ジャンルSSスレに出てくる「女さん」です。まあ色んな作品があるから中にはそうでない作品もあるのですけれど、ああいうので最も成功している作品というのは基本的に主人公に対してどのような態度を取っているかに注目しているものが多いですよね(「ツンデレ」)。
 ――しかし、となると、百合はどうすればいいのか。百合は男を減らせるぶん女をいっぱい出せて男性向けヲタ作品としては絶対有利、というよくある論理は実際正しいし、僕もよく言うことですけれど、ヒロインの魅力が「主人公という存在しない相手に対して感情を向けること」によって成立している状態においては、そうとばかりも言ってられなくなります。ヒロインたちが感情を向ける先として女主人公が存在する? しかし、女主人公だけは「感情を向けること」による魅力の発露メソッドが遣えないため、ひとり浮いた存在になりそうです。また、そもそも百合において男女間の権力関係を露骨に連想させる図式を投入することには、疑問があります。百合が現在以上に商業的地位を獲得するためには、この問題を解決する必要があるでしょう。
 今日はあまり面白い話じゃなくて申し訳ないのですが、眠くなってきたので、またいつかにペンディング。


◆CCXVII年意見の日

 なんか自明な部分と現状把握が粗雑なところ除いたら何も残らない気がしてきたのでやる気なくなってきたんだけど、一応また続き。
 で、結局何が問題かというと、主人公に対してどのような感情を向けているかでキャラクタを規定すると言う発想の貧しさというか(某氏の言葉を借りると)男根主義さなのですけれど。
 でも、性描写禁止とか主人公存在するなという困難を迂回し覆い隠し技術的部分的に解決するために物凄い労力が注ぎこまれたせいで、現在ではそういう創り方をしたほうが効率よくそれなりの作品を産み出すことが出来てしまう(何たる逆転!)という認識のことは忘れてはいけなくて、だから個人的には、今現在の考えとしては、そういうシステムを利用して――内側から乗っ取って――そのシステムの上で「主人公が女性だと上手く行かない」という根本的困難をテクニカルに回避することこそに人々が神経症的努力をするような世界になればいいなあ、と思っていたりするのですね。「そんなの現在までに開発されてきた百合の魅力がまるでないじゃないか」? いえいえ、それすらも畸形的としか言いようのないテクニックで無理やり乗っけてしまうのが神経症の力で。
 ……流石に理屈が苦しいかな。でも、まあ誰もが(「誰もが」という言葉は常に「僕は」を意味するとかなんとか)少女革命ウテナやいたいけな主人が作れるくらい頭良かったり、東方紅魔郷のように完璧なシステムデザインを出来たりできるわけではないので、そういうことを妄想しているだけで。まあ、そういう完璧な人がバンバン出てこれるような状況を用意してほしいなあということを言ったほうが普通なんですけれどね。でもそっちは基盤が出来てないから、やっぱりそうではないアプローチも必要だと――これ以上言い訳しても見苦しいだけだ。ええ、単に僕が遠野詩姫好きなだけです。

 ↑こうは書いたけど、遠野詩姫が男になったアルクやシエル先輩やを全員同時攻略しつつ友情パワーで悪い吸血鬼をやっつけるSSの方が百合よりも強いんじゃないかなー、とかいう気がするなあ……。Kanonは祐一だけ女体化の方が強いはず(昔そう結論付けた覚えがある)ですが。


◆CCXVII年報酬の日

 と、いうことでぱぱっと纏めちゃいましょう。
 今までの議論から、2010年代における我々の目標はもはや明らかとなりました。

 ラノベの7割を百合にすること。

 百合の商業的基盤が弱い理由について、「百合みたいなマイナジャンルで喜ぶ人は少ないから」「百合は受け付けない人がいるから」という説明が可能な時代はもはや終わりました。東方Projectは現在最大級の同人ジャンルであり、オンリーイベントは3000サークルの参加を誇ります(勿論、アレンジCDとかもありますが)。萌え4コマは、百合を積極的に否定する材料がなければ(あるいは、百合に大きな強みがあれば)ジャンルの7割以上は当然のように百合に染めつくされるということを示しています。あ、えっと、ここで「百合」は可能な限りで最も広く取っています。とにかく、百合が十分な市場的規模を持つことは、今では誰もが知ることです。
 僕は冗談を言っているのではありません。この目標はちょうどよい程度だと考えています。「ラノベの7割が百合とかwww」と思う人は、この10年間でどれだけ百合が量的拡大を遂げたかをもう一度思い出しましょう。次に百合が取り組むべきことは、百合を創作する上で現在のヒロイン - 主人公文化に対してどのような態度を取るべきかの基本定石を幾つか開発することだ、というのは昨日までに述べました。それさえ整備されれば、百合がラノベを席巻しない理由は何もない(エロゲについては、百合においてエロシーンをどういう風に描くかという別の大きな問題があるのですが――それもそろそろ解決されていい問題かもしれませんが、あまり詳しくないのでスルー――ラノベにおいてはそれは問題となりません)。

 その未来はユートピアなのか。
 いいえ。2020年、ラノベの7割が百合になったとき、僕たちは恐らく「昔は良かった、今のようにゴミ百合作品が粗製乱造されてなかった。あのすばらしい作品も、あの美しい作品も、すぐににわかで頭の悪いヌル百合厨どもにあっという間に陵辱されていったんだ。お蔭で今じゃ、どの百合作品もテンプレの縮小再生産だ」と呟くことでしょう。今現在僕たちが、にわかで頭の悪いヌル百合厨どもに対して腹を立てるのと、まるで同じ調子で(あるいは、その顔には諦めがより色濃く出ているかもしれません)。
 そうやって懐古がされるような傑作が産み出されるようにするために、僕たちはその未来の絶望を、招きよせなければならないのです。ええ、ありとあらゆる大ムーブメントが成し遂げてきたことを、まさか百合が出来ないわけがないでしょう?

 とゆーことで。また来世、諸君。


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