思ったんだけど、「誰かに話しているつもりになって書く」っていうのは、つまり、誰に話しているつもりになって書けばいいのかな。- 「鉄コミュニケイション1 ― ハルカとイーヴァ」(秋山瑞人)
「Sweet Home」(やまぶき綾)1巻を入手。
あまりに自分のキャラ通りすぎて言いたくないのだけれど葉澄さんが好きだ。「せいなるめぐみ」の乙女さんとかもそうだけれど、考えていることと周りへの態度の間の距離、というのはやはり重要なのですね、きっと。
話は変わって、SSの精神というのを僕は何にみているのかなということを考えてみたのですが、やはり「原作とかもうどうでもいいのです。文学性こそ至上です」とか嘯きながらめちゃくちゃに人格改変された福沢祐巳や二条乃梨子が特異な独白や思想的対決を繰り広げていたマリみてSSというのは僕にとって大事なのだなあという結論になりました(あまりに先鋭的すぎてドン詰まりといわれれば反論のしようがないのですが)。テクストと真摯に向き合ってそこから何かを汲み取るというのは2次創作においては所詮凡才のすることだよね、という。
天才って見ていて本当に羨ましいですよね。ああ腹立つなあ。
電波通信。
なんか後でバレるのもみっともないし今のうちに告白しておくと、SSerというのはエヴァ - ナデシコ - GS美神あたりに代表される文化圏の人(「ファンフィクション」)と葉鍵 - マリみて - 東方あたりに代表される文化圏の人(「SSリンク」)、という2つを代表的な勢力としていて、TYPE-MOONは両側から人が集まっていた、という印象があるのですが(エビデンス? なにそれおいしいの)、非常に申し訳ないというか恥ずかしいことに、僕自身は後者の文化圏な人間なもので前者のことは全然分かっていないのですよねー。当時から燃えとかマジどうでもいいだったし、ある面では仕方ないのだけれど。なので、ストーリィからなる強烈なキャラクタとかいわれると、ちょっとピンとこない。では何があったかというと、↑の通り。
んー、しかし本当に色々と跡形もなくなっちゃいましたよねー。
物理的あるいは文脈的なあらゆる制約から逃れた純粋な「キャラクタ」そのものというのにはどうやったら近づけるのか、のアプローチには、キャラクタ同士の関係を排除する方向性と、キャラクタ同士の関係を抽出する方向性の2種類が試みられているようですが、うーん。ここで想定しているのは当然、前者としては伺かや初音ミク、後者としては東方Win3部作や萌え4コマ。
(あー、ミクとかはボカロ家族で漫画になったりするわけで、全然ひとり違うじゃんみたいなツッコミを受けそうなのですが、そうではなくて、彼女達の「キャラクタ」としての純粋性が最も強く感じられるのは、彼女が「ひとり」な瞬間――そこに確かに存在しているとあまりに強く感じられるのに、しかし彼女がどこに存在しているのかは曖昧である、その矛盾が露わになった瞬間でしょう)
「ひとり」な瞬間、という話をするとなると、どこぞのパクリだけど伺か仕様書中のゴーストの死についての言及部分にやっぱ繋げることになるんだろうなあ。
表象の社会的流通とその中での動的変化(「成長」)こそがキャラクタの生きる条件であるにもかかわらず、キャラクタが社会から切り離されて、その永遠性を主張しだした瞬間こそが最もキャラクタらしい、という逆説。社会から切り離されたキャラクタの永遠性を強烈に訴えかけてくる伺かというソフトウェアは、それゆえキャラクタの死について言及せざるを得なかった、と?
ハードコアテクノみたいな小説を書くという僕たちの遠大な計画(目的は勿論、音楽と絵が出来ないことへの復讐!)のためには、そこらへんのことも意識していかないといけないのではないでしょうか。
まずは東方SSの再検討から始めなければならないでしょう。ハイペースなビート、乱舞するシンセサイザーの明るいメロディ、女性ヴォーカルの甲高い声。最良の東方SSにおいてこれらは、特異な文体、センス・オブ・ワンダーなSF的想像力、純粋なキャラクタ、という形で再現されていたとは看做せないでしょうか。