■ notes / Ventôse an CCXVII



「ふたまた!
 それは/恋愛の/必殺技!
 二人の女の子と/上手につきあって/最後に/いい方を選ぶ
 恋愛で失敗しない/上級てくにっく!!」

- 「スパイラル・アライヴ」1巻(作:城平京、画:水野英多)





◆CCXVII年風月1日

 1ヶ月も続かないと思ったけれど外れた。読んでくださる皆さんのお蔭です。
 まあ、いつ挫折するかは分からないから今までどおり適当に読んでてくださいね。

 雨月14日で書かなかったけど。
 cosMo(暴走P)氏は厨房文脈の中で正しくポスト西尾・ポスト奈須ですよね、という指摘は誰かしているのかなあ。つまり、極めてZUN的なアプローチを取っている意味で。
 純音樂的な趣味が近いかとかいう話は僕の能力的に分からないので置いておくにしても、瞬間最大きらめき主義、脱文章化、ラディカル2次創作的な態度、ゲーム的言語感覚への接近(この場合ゲームってノベルゲーのことじゃないよ)、とそっくりなぞることができる。僕たちの知る最良の。
 逆に言えば、勿論・当然・言うまでもなく、ZUNにも(世界観レヴェルで)cosMo的な感覚があるという話で。まあ優れた同人作家さんやSS作家さんの間では「何を今更そんな眠たいことを」なんだろうけれど、そこらへんを視界に入れた東方論をもっと読みたいです。


◆CCXVII年風月2日

 まだラフなスケッチなので細かい論理の瑕疵はどんどん突っ込んでください。

 えっと、現在それなりに安定的に百合作品が生まれているジャンルを眺めてみましょう――2次創作、短編漫画、ノベルゲーム。これらはみな、精密な「物語を始めるための仕掛け」を必要とせずに成立しうるジャンルという共通点があって。2次創作は原作が物語を始めてくれている。短編百合漫画はワン・アイデアで――つまり、二項対立の脱臼や構図の変化をたった1つ用意すれば成立可能。ノベルゲームは延々どうでもいい会話シーンを読んでいることでキャラクタの存在を実感するという捩れたシステムを取っている。「物語を始める仕掛け」を百合上で操れる人間は僕の知る限り世界にまだ殆どいなくて、だからそれを実現した「荊の城」(サラ・ウォーターズ)は超傑作な訳ですけれど、でもあれも寄玄さんのしまのりの3次創作小説だしなあ(おい)。

 何かにつけて「先天女体化! 先天女体化!」と叫んでいる僕ですが、そこらへんの行き詰まりを解決するための1つの方向性としてみているのだったりします。それについては、また明日以降書くかも。書かないかも。


◆CCXVII年風月3日

 昨日の続き。

 さて、このことは、男性の存在と《安定》=物語を始める仕掛けの間になんらかの関係があることを示唆しているように思えます。で、それは男性の社会的役割とかから説明は付くだろうし、多分精神分析的に男根がどうのこうのとかいう話にもなるんでしょうが(精神分析とか知らねーよ!)、そういう説明で済ませてしまうと実作上の技術的な困難から遊離してしまう可能性があるので、もうちょっと具体的に見てみたいですよね。どのような百合が可能なのか、ということをもっと追究するべきだと。
 で、なので、この謎を突き詰めるためにまず流布されるべき主張は、【百合にもヘテロに出来るなら、百合にするべきだ】ということです。実際これは論理的に言って正しいです。物語を転がす方法=世界を読み換える方法については、百合のほうが充実しているに決まっている――構造的に、百合は社会的規範の恣意性に眼を向けることになる――ので。
 話をちょっとずらすと、「百合を描くからには百合ならではのよさを」という思考は、勿論場合によっては有益ですが(作者が魅せ場の概念を理解していないときなど)、しばしば百合にとって大きな害悪となっています。既存の百合イメージの内面化と再生産を作者に要求するからです。百合=有徴のマイノリティとヘテロ=無徴のマジョリティという構造。【百合にもヘテロに出来るなら、百合にするべきだ】という主張は、これに反対するものでもあります。

 さて、この主張と対になるのが、【先天女体化SSを書くべき】という主張です。
 対ってなにが? とか、そこらへんの続きは、また明日以降に続くかも。1日あたりに書ける文章の量が短すぎて困る。

 拍手にお返事。

>esoratさんって普段どんな本をお読みになるんですか? 影響を受けた批評家とかがもしいたら教えて下さい。esoratさんの知性の源流が知りたいです。

 身に余る言葉有難うございます。でも、もしこの文章が釣りでないとしたら、ごめんなさい、僕には知性とかないので早く気付いてください。
 普段読んでるのはまあここで感想を書いてるような本くらいしか……。あとは数学書とか? 現代数学は各所で微妙に元ネタにしてます。ゆとりなので批評とか哲学とかはミーハーな中高生が手に取りそうな本を数冊読んだだけな気がします(東浩紀とか大澤真幸とか)。
 まあ基本はインターネットですねー。


◆CCXVII年風月4日

 疲れたので昨日の話の続きはおやすみです。

 人狼とかやると信じていた人に騙されたりして人間不信になる、みたいな主張をしている人は、人狼をやったことがないかある種の対人スキルが低いかのどちらかだと思う。
 まともにプレイすれば、精神的に追い詰められる役職は村人側じゃなくて、圧倒的に人狼側のはず。
 これが分からない人間は、例えば「神のみぞ知るセカイ」(若木民喜)とかまともに読めないと思うんですけど。

 なんか、ある種の態度ってあまり共有されてないよね、と思う。つまり、ゲームが面白くなるようにルールやセオリーの意識をしよう、ということなんだけれど。そういうのって、息をするようにしていなきゃ嘘だと思うんだ。


◆CCXVII年風月5日

 昨日の文章はよくないなあ。全く無駄に攻撃的。最悪ですね。反省。

 id:nanariさんからスターを貰っている人が羨ましいという話をke_taさんとした直後に、ke_taさんがスターを貰っていた。むー。nanariスター充めー。

 「つぼみ」の感想を書きたいのだが。

 相変わらず先天女体化話の続きを書く元気が湧かない。

 拍手の返事。

 >esoratさんは普段どんなサイトをご覧になるんですか? 影響を受けたテキストサイトとかがもしあったら教えてください。esoratさんの知性の源流が知りたいです。

(ke_taさんより)

 これは酷いクネクネですね、としか言いようが……。でも一応答えますよぅ。

 最近はTwitterを追っているだけで1日が終わってしまうのでなかなか他のところを見て回れませんが、昔はウェブコミックやSSなんかを読み漁ってました。古いメモを掘り返していたら2chの某SSスレの作品を2日で600本くらい読んだって書いてた。
 よく読んでいたSSはKanon・月姫・マリみてのSS-Linksと東方創想話が中心。webcomicはジャンル内でリンクを辿る感じ。ブログやpixivより前の、サイトの時代の中〜後期くらいですね。
 (超有名どころやはてな周辺を除くと)テキスト・日記サイトで特に強い影響を受けたのは、「Risky Tune」(ttp://f29.aaa.livedoor.jp/~hosi/risky/)、「月渡ねこ劇場」(ttp://tukiwatarineko.hp.infoseek.co.jp/)、「Sunface」(ttp://www.sky.sannet.ne.jp/sunface/、ttp://s-o-s-web.hp.infoseek.co.jp/text/)、「中里一日記」(ttp://kaoriha.org/nikki/、ttp://kaoriha.org/nikki.htm)とかです(多分影響を受けた時期順、リンクは恥ずかしいので張ってない)。
 という感じです。


◆CCXVII年風月6日

 相変わらず調子が悪い。頭痛が……。

 昔のローカルメモを発掘、加筆修正してアップしてみる。体験版と漫画版だけ見て、想像を交えながら断定口調で「おとぼく」の原作を分析したという、瘴気漂うほどの恐ろしい代物。
 3日の続きという意味合いと、あと多分「大文字の他者」によるキャラクタの認識、に関連して。

 例えば宮小路瑞穂というのは、実は(あるいは「客観的には」)男だけれど、「実は」という言葉のかからない部分の要素はすべて可愛い女の子のそれである。女装してもにじみ出てくる男の子らしさというものはないし、あるとしてもそれは女の子的可愛さを増すためにある。
 では女装している意味は何か? ――と考えると、ユーザについて触れないわけにはいかない。以下はユーザとして想定される人物を思いっきり狭く取っているけどそれこそ「大文字のユーザ」とか読み替えるといいと思う。

 瑞穂は、美少女ゲームの主人公としての役割を完全に遂行する(ここでの役割とは、父的なものだと思って、恐らく良い)。「実は男の子である」の「実は」という部分が、男性ユーザが理想の女の子に、いわば、憑依する、その引き金である。
 これによるメリットは何か? というと、「男性主人公的役割を持つキャラクタ」を萌えキャラの存在密度を下げることなく登場させられる、という。いわゆるラヴコメにおける男性主人公の重要性を見誤ってはいけないと思う。

 瑞穂ちゃんの魅力を見誤ってはいけない。男の子であるということが可愛いのではない。「無限に女の子である存在が《男の子》という性質を実は持っている」――男の子的役割を奪われることで男の子であるという事実は光り輝く。その意味で宮小路瑞穂は正しく《美少女》である。この観点から見ると、金持ちの完璧超人であることが極めて合理的なデザインであることもよくわかる。
 綾崎ハーマイオニーとかも恐らく同じ。

 しかしその瑞穂ちゃんやハヤテが女性を犯すというのはなんなんだろうねー? という話にもなりましてですね。あれはどうも釈然としないよね。
 あらきかなおぐらいまで行き着いちゃえばアレなんですけれど。深い意味でもあるのかな。それとも単にみんなエッチなことがしたいのかな。


◆CCXVII年風月7日

 続き。
 いよいよ電波の出力全開ですよ。

 エロゲの主人公にとって本質的なのは性行為をすることではない。ここでのエロゲというのは「それなんてエロゲ」というときのそれだ。
 エロシーンには必ずしも感情移入は必要ない。ではなぜ主人公に「感情移入」するというプロセスが必要になるかというと、ヒロインに説教したり、面倒を見てあげたりするから。そのために主人公を男性にしている(対象性がガチだと成立が著しく困難になる)。
 みんな男が大好きなのだ。

 さて、僕たちはここで思い出さなければならないものがある:Kanonや月姫の、主人公女体化SSだ。それも、先天女体化再構成モノ。
 このジャンルについての有名事実は、ある程度以上長いモノを書こうとした人たちはみんな投げていること。だから、きっと成立させるのは難しいのだろうけれど。まあほら、再構成とか元々とても正気じゃのせられないものだしさ。

 しかし、論理としては完璧である。
 かわいい子が、「実は」男性である「ので」主人公になれるというのは、一般性に欠けているし、百合から逃げている臆病な戦術にも感じる。それに対して、先天女体化再構成においては、少女が主人公になれる根拠を「原作では男性主人公であった」というリンクと、主人公が原作でした行動を、再構成作品中でも取っていることのみにおいている。その作品世界の内部から眺めると、「彼女」が男性であるような痕跡は何も見出せない。
 その、基盤のあやふやさ、読者の前提に任せっきりなところが、極めてすばらしいと思う。

 そこで問題となるのは、「原作が存在しない女体化SS」を書けるか? ということ。
 つまり、Kanon無しでKanon先天女体化再構成は書けるか、また、そのような作品があったとして、それをそうと認識できるか。つまり、「主人公っぽい」キャラをそう認識できるか?
 「ろりーた絶対王政」(三嶋くるみ)のあとがきには、担当編集者が鷹彦を女の子にして百合にしたらどうかと提案したという記述がある。これが実際に行われていたとしたらどうだろう? さらに、極めて荒唐無稽な話だけれど、平行世界からの思念波を三嶋くるみが無意識に受信して、鷹彦を女性化させながら、お話の筋自体は現在のものと出来るだけ近いような作品を描いたとしたら? タカヒ子はその世界でも「可愛い」と認識されるのか?
 だからまあ、現実的には、「小説書いてからそれを女体化して、そっちだけ発表して見せて欲しいな」という話ね。うわあ、全然現実的じゃないなー。

 タカヒ子への反応ばっかりだった、という2巻での三嶋くるみの記述は、先天女体化が百合の未来の可能性の1つであることを示していると思う。それが長編小説の安定生産を百合において可能にするのならば喜ぶべきことであり、この方法で書かれたキャラクタは百合の固定観念を崩し、成立範囲を広げるのではないかと信じている(だから「両輪」なのだ)。

 でももし、女体化は原作無しには成立せず、男性の存在が《安定》に不可欠で、この時代のうちには安定して優れた長編百合小説を生産することが不可能だと分かったら?
 ――その時はその時で、別の道はある。そう、2次創作は華麗なる撤退戦をまだまだ踊り続けているよ!


◆CCXVII年風月8日

 放射能マークを考えた人は天才だなー。

 訂正。
 ハヤテきゅんが女の子を犯すとか書いてますが、これはえっと、エロ2次創作をちょっと読んだら意外とハヤテ君が受けじゃなくてビックリしたっていう思い出がありまして、それでそういうことを書いたのだと思います。
 平然と2次創作の傾向を原作で起きたことのように語るのは流石にヤバい……。

 拍手レス。

 >esoratさんは百合にお詳しいですが、マリみてについてはどういったご感想をお持ちですか?
 >もしくは、かつてどういったご感想をお持ちでしたか?

 マリみては当事者としては関わらなかったなー。ので原作には特に強い思い入れは。いい作品だなあ、とは思います(非常に高い水準の作品をあの時期に提供したという点が特に)。みんな好きだけれど白が一番かなあ。あと蔦子さん?
 あと、たかが高校生の生徒会なのに皆さんエリート社会人みたいに優秀で衝撃を受けました。お前らどんだけ実務能力あるんだよ!

 2次創作には結構コミットしていて、作者によってキャラ解釈が違うどころか、人によっては完全に原作の人格を留めていないあたりが好きでした。天才的なSSとかウェブコミックとかありましたよね。


◆CCXVII年風月9日

 雪!


◆CCXVII年風月10日

 「つぼみ」を読んだという知人と話をした。
 自由とは、理由もなく上手く行っている、ということだと思うのだが、一般的にはそういう読みはされないらしい。「ひみつのレシピ」(森永みるく)や「ついでのはなし。」(大朋めがね)、「この靴しりませんか?」(水谷フーカ)あたりはそういうノリで読むものかと……。

 自分が駄目だと叫ぶことは気持ちがいい。そこには昏い心地よさがある。ドライヴされる、という言葉がこれほどぴったりする時間もない。
 今日は生まれてからもしかしたら一番、自分は駄目だ、というような話をした。抜け殻になるくらいに。

 自分の「本当の気持ち」などというものをどうやって知ることができるというのだろう?


◆CCXVII年風月11日

 深夜の5時ごろ(10進時に合わせるならば2時と書くべきだろうか)、突如として自分が抑うつの長いトンネルから抜け出して、と同時にここしばらくの自分が――ただダメダメな生活を送っていただけではなくて――抑うつ状態にあったのだということに気が付いた。

 もう何百回何千回とリピートした「birthday eve」(SHIHO)を聴きながら数学書を読んでいたら、音というものの新鮮な美しさに突如気付いて、びっくりした。
 精神が闇から抜け出す瞬間に見える希望。


◆CCXVII年風月12日

 つまりですね、僕程度の人間が短編百合についてテケトーな感想が書けるようになったくらい、短編百合というのはノウハウが蓄積してきているということなのですよ。それなりに頭のいい人がそれなりに考えて描けばなかなか良いものができる、というかさ。

 「まんがタイムきららフォワード」4月号をようやく購入。
 「ろりーた絶対王政」はもうすぐ終了かよー! やはり捌き切るのは難しかったのか、という感想になってしまうなあ……。一方、「桃色シンドローム」はもう自分の予想をそのまんまなぞっていて怖くなる。うーん、この2つが終わってしまったら購読止めようかなあ。

 あと、「天秤は花と泳ぐ」がまったく他愛もないですね。つまり、好き。


◆CCXVII年風月13日

 弟が買ってきた「苺ましまろ」(ばらスィー)6巻を読んだ。
 一番簡単に言えば、作者が全盛期の力を失ってきているとか、作者がキャラを忘れてしまっている、とかいうことなんだけれど。
 美羽のことを考えると悲しくなる。学校でも友達はいない、勉強も出来ない。まともな職場で働けそうではない。数年後の彼女は、千佳に依存しながら、過去を懐かしみ、後悔と刹那的快楽の間で生きる人間になってしまうのではないか。

 何故美羽はこれまで救われていたのか? 「かわいいは、正義!」――可愛いお洋服を着て、格好良い音楽を聴いて、女の子は無敵! という昔ながらのイメージ戦略に依存する部分が、「苺ましまろ」は意外と大きくてですね。6巻ではそういうアピールが出来ていないというのが大きいんじゃないのかな。
 そうすると、美羽やお姉ちゃんというのは途端に「ゆるめいつ」のようなディストピアの住人に見えてくる。

 上手く纏まらないなあ。つまり、まだよく分かってないんだろうなあ。
 だからその、「苺ましまろ」っていわゆるスイーツ(笑)的でそこが良かったんだけれど、今回はそうじゃなかったよね、ということ。


◆CCXVII年風月14日

 弟が買ってきた(またか)「ぱにぽに」(氷川へきる)11巻を読んだ。超面白い。こうも時空と因果が痙攣的に跳ね回る漫画って他にあるんだろうか。僕はきららの萌え4コマのような、人類の歴史の必然を感じさせる漫画を読んでいる傾向が割とあるので、たまにこういう漫画を読むとびっくりする。
 昔は一条さんとかベホイミとか南条さんとかが好きだった覚えがあるんだけれど、今読んでみたら都が可愛かった。あと6号さん。

 思い出したのは「少女革命ウテナ」と、昔の同志スターリンと語らい合うスレ


◆CCXVII年風月15日

 あれから4日でもう生活も精神状態も最悪に戻っている。どうにかしたいという焦燥感があるだけマシか。
 きららキャラットを読んだ。香奈絵ちゃんが偉い。香奈絵ちゃんに養われたい。

 「regret」というアルバムは名前に反して、約束だの盟約だの避け得ない悲劇だの唄っている曲はせいぜい「last regrets」しかなくて、あと革命系が2曲ぐらい入っているけど、残った大半の曲では恋の始まりがどうのこうのとか美しく生きたいよねとか、そんな小さくて他愛もないことが唄われている。歌い手もAKIでありMARYであり。「verge」→「Disintegration」と、だんだんそういう傾向は薄れていって、今では影も見えない。
 それはそれで論理的に正当な変化だったと思うし、それ以降の曲も大好きなのだけれど、あのアルバムに「regret」という名が付いていることについては、考えないといけないと思う。それには確かに必然性があり、その路線が消えたことにもきっと必然性があった。
 考えずともだれかが書いてる予感がしまくりだけど。


◆CCXVII年風月16日

 メタタグが実存を規定する。
 実は、真正な実存の形は、常にそのようにしかありえないのではないか? と、ふと。流石に世代論にすぎるかなー。
 しかし例えば、「人間は自由の刑に処されている」とは、まさにそのような言及ではないのか。

 整理。
・西尾(プレZUN): メタタグでの記述が形而下的在り方へと逆照射しキャラクタの実存が再(差異)形成される
・ZUN(ポスト西尾): 殆どメタタグのみが記述される
・先鋭的2次創作: メタタグから形而下的在り方への逆照射の恣意性を利用してキャラクタをハックする
 ここで、ZUNが先鋭的2次創作をあらかじめ想定していたかどうかは難しい問題。どちらだとしてもおかしくない。

 世代論を拾いなおすためには、どんなに極私的な言葉を遣ってでも、まずは世代的な命題を記述しなければならない。
 記述されれば、それがどんなに謎めいた形をとろうとも、とにかく存在する。しかし、記述されなかった命題は存在しない。
 とは思いません?


◆CCXVII年風月17日

 ×萌え4コマの挿絵には何故志免炭鉱竪坑櫓が描かれているのか
 ○里見英樹装丁漫画の挿絵には何故何故志免炭鉱竪坑櫓が描かれているのか

 ×萌え4コマのカラーページには何故子供用おもちゃのネタがあるのか
 ○里見英樹装丁漫画のカラーページには何故子供用おもちゃのネタがあるのか

 ちょっと前に比べれば萌え4コマ周辺での里見英樹のプレゼンスもだいぶ落ちたような体感。


◆CCXVII年風月18日

 ちなみにポスト西尾って書いたのは提示の方法についてであってタグと実存の関係とかはひとまずおいといて、だったんですが(タグと実存の話になるとZUNと暴走Pが並んでいる理由がないし)。まあいいか。

 「あの」西尾維新が自らのテクニックを400ページに渡って解説・自慢し続ける「ザレゴトディクショナル」こそ彼の最重要著作の1つだ、というのは前から主張しているのですが、同意を得られたためしがない。
 あれは現代ライトノベルの方法論を知る上では超一級の教科書だと思うんだけどなー。


◆CCXVII年風月19日

 日本語が変。うるせー。文章が下手で悪かったなー。

 で、自由。誰か/何かが自由っていうのは、それを束縛する条件がないということですよ。それだけ。普通の遣い方だと思うんだけどなあ。
 作品上でどう自由を表現するかという話になると、その通りで大体OK。

 もう少し発展的な話題をすると、自由という言葉は大抵根拠とペアで扱うことになります。「自由であることを証明するのは悪魔の証明なので出来ない」という話がこの場合核心になってくる。
 一番いい例は「ふおんコネクト!」(ざら)の2巻。1巻のように「みんな優秀で格好良くて自由で、繋がってる!」という風に自由の基盤を用意してしまうと、悪魔の証明トラップに引っかかる。トラップはそのキャラの一番弱いところに対して「自由であることを証明せよ」と迫ってくる。だから2巻以降で、交流の極端さは、夕せんせいの無力さは、ふおんの自意識過剰さは、剥き出しにされたのです。それには必然性があった。
(その弱さが描写された上で「――それでも、」と続けるのが、「ふおんコネクト!」の一番いいところなのですが)


◆CCXVII年風月20日

 他の例。

1. 自由である。なぜなら、みんな優秀だから(ここは「ふおん」と同じ)
2. 自由は揺らがない
3. それは無限に優秀であるということを意味する
4. 登場キャラが人類に見えなくなってくる
(「あっちこっち」)

1. 幸せである。根拠は一切ない
2. 関係を揺らす。どんなに小さなものでも良い
3. 幸せな状態に根拠が一切ないのだから、理論上、どんな僅かなズレでも増幅され最終的には崩壊に至るはず
4. ありとあらゆることが崩壊の予感として機能し、幸せに影を落とす
(「かなめも」)

 萌え4コマの教師はなぜ生徒以上にゆっとゆとなのか、という問題も根拠という角度から見れば簡単ですね。ゆとることが学生の間だけ許されることだとしたら、ゆとりライフは将来の不安と隣り合わせのものとして描写されることになる。そこでゆとり生活が若い時期だけに許されたものではないということを作品内で保証するために、教師(「大人」の立場にある人)をゆとらせる。

 「女の子のだらだらライフ」「微温的で無時間的な空間」と簡単に称されるものを創り上げるために、極端な仕掛けの数々が、どれだけ必要だったか。


◆CCXVII年風月21日

 外出中でした。
 ネットストーカーの怖さを説明したり、タイトルとかキャラ名とかキャラデザとか色々お手伝いをしたりしました。


◆CCXVII年風月22日

 例大祭には行かないでお金を貯めるつもりだったんだけれど、とらのあなにて大量に買ってしまいました。
 まあ15000円なら行った場合よりもだいぶ少ない金額だろうしいいか。

 @ke_taさんとか@shizuka_wさんとかあたりで萌え4コマ話が盛り上がっていたようで。「キルミーベイベー」は自分の中でいまいち分析しきれていなかったので、とても参考になりました。
 後知恵で1つだけ付け加えておくと、学校=楽園に外部から侵入する異物というのは、ソーニャが十分強ければ問題なくて、それよりも致命的に危険なのはソーニャが殺し屋の仕事をしに行くことだという(内部からの楽園の破壊)。きららキャラットの最新回は、ソーニャが殺人の依頼をこなしに行こうとするのをあの手この手でやすなが阻止しようとする話だったのですが、殺し屋襲撃の回と違って全く洒落にならなかった。
 2巻の最初でこういう話を置くことによって、ソーニャが殺し屋であるという生々しい事実を(巻を超えて)維持しようと考えたのでしょうが、そうした理由は……なんでだろ。カタストロフの予感にある種の重要性があるのかな?  ともかく、ここの説明にあるようなお気楽空間をカヅホは自ら(一部分のみかもしれないが)壊しにかかった。この狙いを見極めるため次号以降もこの作品を注視していきたい。

 あと「二丁目〜」のアリスが設定の任意性を体現しているっていうのは眼から鱗だった! 僕だけかもしれないけれど、設定の任意性って結構目に入りにくいんだよなあ。


◆CCXVII年風月23日

 応答に追われてるなー。内容は少なくなっちゃうけど仕方ないか。

 twitterを眺めていると多くの人に褒めていただいて、ありがたいのは勿論なのですけれど、ぼろが出る前に株を売り逃げたい気分でいっぱい……。
 あれですよ、正直、頭のいい人に自分の発言を解釈してもらってから「そうそう、それが言いたかったんですよ」と後出ししてることばっかりですよ。

 プレッシャになるから本当は言わないほうがいいのかもしれないけれど、id:taki-onさんがまたブログを始められたことは、嬉しい。どんなに更新が飛び飛びになってもいいから、今度こそ閉鎖しなければいいな、と期待している。
 僕のテキトウさの1/10でも彼の人に分け与えられればいいな、と思うのだけれど。とにかく、気負わず感想を書き続けられることを願っています。
(負担になるようだったら無視していただいて結構な程度のメッセージです。とにかくあまり精神的に無理しないで欲しいな、と)


◆CCXVII年風月24日

 各作品の編集者について調べることを、今まで意図的に避けてきたのだけれども、そろそろ勉強したほうがいいかしら、という気にもなってきた。誰か詳しい人が一通り説明してくれたらいいんだけど、まあそんな訳にもいかないんだろうなー。芋さんとか纏めていたりしないかしら。
 編集者というのは重要な仕事をしているのだ、ということを実はあまり理解できていない(クリエイター幻想)のだけれど、それでもきららでは編集者によって何か重要なことが起こっているっぽいので。

 お返事。

 >激励のお言葉ありがとうございます。これであと10年は戦えます! というのは半分冗談ですが、でもesoratさんに言及されるというのは本当に嬉しいですし、それだけで励みになります(などと書くとプレッシャーを与えてしまって申し訳ないですが、もちろん無理に言及して下さる必要はありませんし、面白くなかったら見限って下さっても結構です)。なんだかあまりにファン的な書き込みになってしまってすみません。お返事しづらかったらスルーして下さい。

(taki-onさんより)

 いやもう、昔っから色々と影響されているので。taki-onさんの布教していた「けいおん!」と「ぼくの生徒はヴァンパイア」に見事にハマったのは想い出深いです。
 (お互い精神的に負担にならない程度に)言及し合っていちゃいちゃしましょうー。


◆CCXVII年風月25日

 「ザレゴトディクショナル―戯言シリーズ用語辞典」(西尾維新)を読み返している。
 ただ、羨ましい。


◆CCXVII年風月26日

 「ザレゴトディクショナル―戯言シリーズ用語辞典」(西尾維新)を引き続き読み返している。
 何度読んでも発見がある。とにかく、すべて小手先であるというのが凄い。どれだけ演算が早いんだ。僕がここやhatenaで書いていることの中にも、この本から無意識にパクっているものが結構あるなあ、と気付かされた。
 ミスタードーナツの項が格好良いなー。

 この本を読んでいると、自分でも西尾っぽい名前がぽこぽこ思い浮かぶ。5つくらいネタが浮かんだ。
 僕は数年前からキャラの名前を考えてはメモに取っていて、もう数十人分になるのだが、小説を書くことが全くないので一切遣い道がない。どうしたものか。「西尾の真似」という一発芸にしてもいいのだけど。


◆CCXVII年風月27日

 ポメラの購入を検討中。PCの前に座って覚書を書こうとしたらいつの間にか3時間経ってたりするのは壮絶に阿呆なので、その対策。
 キーボードの質、8000字制限、表示の貧弱さが心配か。  

 「けいおん!」(かきふらい)2巻を読んだ。
 弟にこの作品のアナーキーさを説明したところ、割と良い反応を得た。2巻では単に登場人物がゆとりであることを超えて、フィクションの枠組みを攪乱しにかかっている(しかも恐らく無意識に)、というような感じ。
 ある程度文章の形に纏めたのだが、某所の原稿にしようと思うのでここには載せない。乞うご期待(没るか落としたらここに載せます)。


◆CCXVII年風月28日

 更新が止まっていてすいません。折角更新しても何も面白いことが書いてなくてすいません(期待しないでって前から言ってるとおりだから許して)。「けいおん!」の感想をどう書いたものか色々と考えていたのでした。もうしばらく更新が不安定になるかも。

 リアル知人のS.H.さんからメッセージを頂きました。いぇー。

 キルミーベイベーについて思ったこと。
 申し訳なくなるくらいベタな考え方なんだが、最新号で示しているのは関係性の変化なんじゃ。

 一巻の最初の話で、仕事に行ったソーニャをそわそわしながら教室で待つやすな、という描写があるけど、最新号ではやすなはソーニャを止めに向かっている。
 この変化は一巻を通して積み上げてきた二人のやりとりの成果であり、それぞれ一巻と二巻の初めの方に対置することでいっそう明示される。

 この考えの問題点は、一巻のソーニャを止められないやすなは、第一話であるがゆえの不安定さというか、第二話・第三話のやすなだったら止めに行ったんじゃないかなってこと。まあそこは厳密に考えすぎたら批評にならないしね。

 殺し屋設定を読者の記憶にとどめるためっていう考え方の方が、萌え4コマの本質(?)に通じる議論ができるので、有益な視点ではある。それに対して僕のは貧しいなあ。ただ、僕はソーニャが殺し屋であるという設定を読者が完全に忘れてしまっても面白さを維持できたと考えているので、これから方向転換でもしない限り、僕の説はそれなりに価値があると考えている。まあベタでもいいじゃない。

 人のことは言えないけれど、キモい文体ですねー。
 えっと、それはともかく、直観的にはかなり説得力のある論な気がするなあ。「これから方針転換しない」ことを前提としながら「関係性の変化」として解釈する、というアクロバットが鮮やかで、さらに1巻2巻問題と絡めることで説得力が増すのも、すごいなー、と。まだ詰める余地があるとは思うけれど。
 って、何を上から目線発言してるんでしょうね(死ね自分)。ともかく、そういう面白いこと考えているんだったらさっさとブログなりテキストサイトなりやりましょう>S.H.先生


◆CCXVII年風月29日

 「スクラップド・プリンセス」シリーズの第1巻、「捨て猫王女の前奏曲」(榊一郎)を読んだ。ふつう。
 (グレゴリオ暦における)前世紀にドラゴンマガジンで何回か読んだ覚えがあるが、3人のキャラと廃棄王女という設定しか憶えていなかった。
 まあ、話の筋がお手本のようというか新人賞応募作テンプレートというか(まあこの話は新人賞応募作ではないが)。新人賞応募作テンプレートはあまり好きじゃないんだよなあ。あと、魔術や二つ名のチョイスが現代の眼から見るとちょっと……(当時許されていたかどうかは知らん)。

 3つ褒めておく。
 廃棄王女という設定は強いですね。イメージ喚起力が強いし、これさえ用意されていれば話を動かすこともかなりやりやすそう。
 連動式起動呪文という設定は良いですね。ゲームでそういうキャラいたら遣いたいなあ、という感じで。あの頃のラノベキャラの強さってゲームの感覚から判断させようとしている面がある気がする(西尾とは対極だなあ)
 あと、ファンタジィ世界で不殺縛りをかけているのも好ましいですね。
 この3つはきっと富士見ファンタジアのシェアノウハウに則っているんだろうな(作品サンプルが少ないから自信がないけど)。だから作者自体はまあ、そのノウハウをそれなりに上手く活用したね、というだけで、そう褒めるには値しないかもしれない。
 それにしても、こういうのってゼロ年代にはどこへ行ったのか。……もしかして、電撃にジェノサイドされた?


◆CCXVII年風月30日

 ポメラを購入した。この文章も試験的にポメラで書いている。"ca/ci/cu/ce/co"で「か/し/く/せ/こ」が出ないのはきついな。
 文体はデバイスに著しく左右されるので、少し文章の雰囲気が変わるかも。

 弟にレイディバグを実演してもらった。昔ハマった時期があったそうで、僕から見れば意味不明の爆笑展開の連続でも、彼は「あー、これはよくあるパターンだなあ」「勝利音が鳴ったからもう詰んだね」「ここでこういう音が鳴るということはこういう内部処理をしているんだから、この状態から抜け出すにはセレクトを連打すれば……」などと冷静に分析していた。まあ、少しやれば分かることなのだろうけれど、強いと思わされるなあ。
 もしかして僕たちの世界にもバグが隠されていて、特定の行動をすると街行く人たちの発言がバグりだしたりするのではないか、という想像をすると樂しい。

 ウェブ拍手でS.H.さんのメッセージに反応がありました。

 >>申し訳なくなるくらいベタな考え方なんだが、最新号で示しているのは関係性の変化なんじゃ。
 >まったくもって正しい。というか理論的には、時間が経過した以上関係性の変化を描くことは不可避であり(萌え4コマの本質)、それで殺し屋設定を旋回の中心にしてみたらああなった、というふうに筋道が一直線につながってるんじゃないかと。
 >あと個人的には殺し屋設定は必要だと思います。この辺の観点の違いは作品に対して何を見ているかによるのかなあ。
 >と、自分のところの更新がめんどくさいので人任せにするライフハック。

(famineさんより)

 文章書くのを人任せにするライフハック。win-winですね!


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