■ notes / Prairial an CCXVII




「あの…じゃあ/『まーや』って呼んで下さい」
「平仮名で?/片仮名で?」
「ひ…平仮名で」

- 「少女セクト」(玄鉄絢)





◆CCXVII年牧草月13日

 そろそろこういうこともちゃんと口に出しておくか。

 なぜ東方同人にはエロが少ないのか、という話題が先日出て、そこで言いそびれたことがあったのですが。
 イデオロギー面からの回答を与えるとしたら、東方Projectが積極的に性差廃絶主義を採用しているというのが大きいんじゃないですか。フィクションにおいては性差廃絶主義っていうのは男または女を全員エリミネートして恋愛というものの肉体性に一切知らんぷりすればかなりの水準で成立します。例えば、萌え4コマとか、ある種の百合とか、そして勿論東方も。
 で、まあ多くのファンは東方みたいにあからさまに性差の排除された世界をわざわざ好むということはそういうのを拒否しているからこそ東方みたいなのを選んでいるんだ、という説明は当然可能でしょう、と。

 本当は、もうちょっと内在的に説明を付けたいので、理論の妥当性はさておきちょっと妄想を書き留めておきますね。
 東方に限らずまあフィクション内性差廃絶主義について考えてみると、それを実現するために重要なのは何か? そこで描かれる世界はどのような要素を捨象しているのか?
 例えばマリみて。マリみては性差廃絶主義的かというとちょっとはっきり答えられないですが(なんともいえない)、何にせよ、マリみてのエロ同人の少なさは、マリみてが男性の描写を排除しているのに留まらず、意識的にリリアン外部の価値観の描写を排除していること、そして身体の描写を排除しているということが決定的に重要で。あれです、「百合においては男根のネガでない新しい女性身体の構築と既存の恋愛観念から自由な新しい価値観こそが重要な課題である」というと分かりやすいですね。
 例えば、クリムゾンコピペのようなものを想像してみると、ああいう状況において女性というのは男性に犯されるのではなくて、イデオロギー、あるいはイデオロギーに形を与えたものである男根に犯される。よって、マリみてのような作品においてそういう状況を作り出すには、セックスの主体である男性、セックスに関する制度を組み込んだ価値観、セックスにおける感じる主体としての女性の身体の3つを接木しなければならない。それには緻密な思考(というほどのものでもないが、コスト)が必要なので、それらがあらかじめ無批判に前提とされている作品に比べ、エロ同人が少なくなる。
 東方においても、男性、外部の価値観、身体、これらは作品内において一切存在しないものとして扱われる(身体について――会話が観念たちを上滑りし続けること、コミュニケーションが身体的接触でなく弾幕であり、しかもその際に身体は小さなドット絵として描かれること、などは勿論だけれど、どんな変な帽子を被っていてもツッコミが入らない、というあたりも気になる。ファッションの実在を認めることすら彼女たちは拒否している? もう少し別の形で問い直せば――果たして美しい弾幕は弾幕ごっこの相手に向けられたものか?)。
 まあ勿論そこからエロさを見出して「東方マジエロい!」とかいうのが良い読み方なんだけれどねー。二次創作の樂しさは戦慄的解釈なので。

 エロ同人はかなり本気で知識ない&興味持ってこなかったので詳しい方によるツッコミ待ちー。あとフィクション内の性について考える上で女性向ジャンルを一切無視しているのもかなりまずいですよね。

 ちなみに聞きかじりのドイツ民俗学に↑の議論を足せば、八雲むらさきさん=《偽装された「幻想郷」像》が理論上東方で一番犯され役に向いているという結論になりそうなんですがどうだろう。……当たり前のようにも思えるな。


◆CCXVII年牧草月14日

 里見英樹という人は頭はいいんだろうけれど全て見通しすぎている感じがなんかむかつくので(確かにすばらしい仕事もたくさんしたけれど、最近のデザインをみていると、あまりに静的にすぎるというか、やっつけというか、説得への情熱が欠如していると思うのですよね。個人的には、説得への情熱がないデザインやキャッチコピーなど興味はない)、最近アンチキャンペーンを(脳内で)張っていたのですが、とりあえず対立軸として称揚すべきはkionachiさんということで。あと、510design.の手がけるやつはどれも格好良ダサくていいですね。
 ……ということを書こうと思っていたのですが、先日何気なく4冊KRコミックス新刊買ったらそのうち3つがkomeworks、1つが510design.でびびったですよ。ぼくパイ(公式略称)、nonote、そら、ふおん。

 んー。
 それぞれの感想でも書くか。

 生パイ(非公式略称)。
 帯はまあ、文章および文字というものに対するkionachiたんの意識が伺えて面白いですね(説明省略原則からいえば完璧とは到底いいがたいが)。カバーの折りの利用というのもいいですね。玉岡かがりの絵もちょおかわいい。

 中身については毎月の感想でも何回か書いたけれど、メイベルさんというのは面白いキャラクタですね。夢で男性の精気を吸うサキュバスという設定とメイベルさんのキャラクタの関係、ある種のことを曖昧なままにしておくことというのは、萌え4コマの環境をよく活かしていますよね(このことは一応4コマじゃなくてもできるのであまり萌え4コマということを強調しない方がいいのかもしれないけれど。とにかく「描写しない」マジ大事)。やっぱり崖から落ちた夢の回が一番すごいよなあ。コマとコマの間でどれだけ時間が経過したのかを隠蔽しているのがよい。
 んで、この様子だと3巻で終わるのかな?

 nonote。
 デザイン。色遣い、フォントのチョイス、三段+後ろの文字、英語タイトル(特に「I am you, You are me.」)は神がかってすばらしい。帯の文章はやや押しつけにすぎるか。

 内容。kionachiたんだか編集さんだかが帯で纏めているからわざわざ僕が言い直す必要もないんだけれど、コミュニケーションというのが行き違っている状態を苦痛と捉え、そこから回復しようと目指す、という発想が欠如していることは面白いですよね。行き違いっぱなしでオールオッケー。それはツンデレの裏返しとかではなくて(そういう場合もあるけれど)、単純に行き違っている。行き違っていることは不可避であるがそれはネガティヴに描写されるべきでもない。
 つまり「相手の話を聞かない=21世紀」という図式に放り込むのが良いかな。科学的世界観が20世紀を支配したように萌え4コマ的世界観が21世紀を支配するらしいですよ。

 「君がボク/僕がキミ」が一番よかったと思うんですけれど、特に、6年を経て描かれた完結編は一見の価値あり。再解釈+話を聞かない主義+裏付け省略、のトリオが2つのカップリングを成立させた瞬間。


◆CCXVII年牧草月15日

 昨日の続き。
 そらについては先月書いたので省略。付け加えて言うことがあるとしたら、打ち切りではなく(ある程度は)円満終了だったのかー、ということか。

 ふおん3巻。
 まずは書き下ろし部分でものすごい量の情報が……。えーっと、なんだこれ。過去にガッチガチにしばられてるなー。「7年前」ってやっぱりn年前は3年前と7年前と10年前が強いよなー。というかこれ、4巻で終了?
 ふおんが終わるということは、萌え4コマは高尚であるという言い訳が1つ消えることになるので、芳文社的には1つのターニング・ポイントになるですよねー。……大丈夫かしら。現在のきららは自らの正統性を補強する作家の発掘にはあまりうまくいっていないように見えるので心配。

 「ちょっといい話」を一冊の中で何回もやられると、その問題点が目に付くので、それについて。
 1人の人間では基本的に把握しきれない量の元ネタ、複雑さの限界を突破したハイパーリンク、画面1枚あたりの情報圧縮、というのを「ふおん」の凄さと説明するのが一般的で、それは勿論そうだと思うんだけれど、それはそうとして、「いい話」を最高速最高圧縮でどう展開するか、ということについて、ざらはいいアプローチを見つけられずに困っているように見える。
 どういうことか。
 泣かせるためには速度と密度の制御が最も肝要である、というのは何度もした話だけれど(4コマだと速度の定義が著しく困難なのでとりあえず以下では密度という言葉で統一しますね)、「ふおん」のレヴェルまで行ってしまうと、シリアス場面で密度を普段以上に上げることは、ほとんど不可能に近い。そこで密度を下げて泣かせるアプローチになるわけだけれど、下げた結果が「ふつうの漫画程度の密度」になってしまっているというか。そこで急激に密度下げまくってリリカル少女漫画にまでなったら泣ける訳だけれど、多くの回では下げきることができてない。特に家族関係が絡む回だと、直接的なお説教台詞や説明台詞なしでは収拾つけられません、という感じがかなり出ている(直接的に説明が可能なことは、泣かせるにあたってはそもそも描くに値しない訳で、その時点で勝負としては負けである。状況と説明の隙間に泣きが生まれる)。
 しかし、うーん。ではどうやればもっと密度が下がるかというと、難しいですよね(そりゃまあ、簡単に解決できる問題ならざらはどうにかしているか)。ざらの絵柄では「かわいい」で説得することはできないし。「すげー強い奴が好き勝手やっていつの間にか状況をどうにかしてくれる」というのは、「ふおん」が超人たちの話から、キャラクタの内面の葛藤を発見する話にシフトしてしまった時点で全く不可能だし(ふおんすら、#32に至って完全に自意識を暴かれてしまった)。


◆CCXVII年牧草月16日

 さらに続き。

 今回泣かせることに一番成功しているのは#37のザ・ニューやわらだと思うんだけれど、これはで書いたことを元に整理してみると相当にテクい。
 ニューやわらの住む場所というのはリリカルな世界で、他のキャラクタのようにハイパーリンクト・ワンダーランドにいるわけではない。そしてイメチェンというのは、リリカルな世界からハイパーリンクト・ワンダーランドへと彼女を召還する行為である――という解釈をしてみよう。
 ざらの絵柄では、普段ハイパーリンクト・ワンダーランドにいるキャラたちを改めて「かわいい」と見直すことは困難な訳だけれど、新しいキャラクタをかわいいものとしてデザインすることは可能だ。ただ、その新キャラをどうやってハイパーリンクト・ワンダーランドの中で描写するかというのが問題になる(「かわいい」キャラも放っておいたら騒々しい世界になじんでしまう、ということは「二丁目路地裏〜」のアリスなんかを見ればわかる)。そこでざらは一瞬だけ異世界からそのキャラを召還するという形式をとることで、ハイパーリンクト・ワンダーランドへの埋め込みを与えずにそのリリカルなキャラを利用することを可能にした、ということ。さらに95ページにおいて(その瞬間だけは)世界を支配する主はザ・ニューやわらなのだから、というか彼女の周囲は元の世界の属性を引きずり帯びているわけで、よって彼女には「葛藤の発見」の手が及ばない(「葛藤の発見」はザ・ニューやわらの世界にはそもそも存在しない力であることに注意しよう)。
 それ自体はまあ、一度限りのイリュージョンではあるけれど、すばらしい力量ですね。

 ……要約すると「イメチェンはかわいい」というだけのことをぐだぐだと説明してしまった感がありますが、ツッコミは禁止。


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